嫌なことから

誰しも嫌なことから逃げ出したいと思う気持ちは一緒だろう。私にしても同じである。嫌なことはなるべくなら避けたいことだし、避けられないのであれば、せめてもう少し先に延ばしたいと思うのではないだろうか。あまり褒められたものではないだろうが、そうして今までやってきたのである。それどころか、嫌なことの前に、まずは楽な道を選んでしまうのである。だがそれは嫌なことから目を逸らせているだけで、残念ながら、それが消えて無くなるというわけではないのだ。

であれば、逃げずに立ち向かえば良いではないか、と言われてしまうかもしれない。まぁ、それが出来れば苦労はしない。しかし文句のひとつも言わずに、心の底から望んでそのようなことをする人もいないだろう。もし、そのような人がいたら、驚きこそするが、自分もそのようになりたいとは願わないだろうと思う。そんなことをしたら、嫌なことを嫌なことと気付かない人間になってしまいそうだ。賢しいことかもしれないが、逃げる知恵というのも、必要かもしれない。と、結局のところは、私の言い訳でしかないのかもしれないが。現実的に考えれば、嫌なことでも黙って耐えるのが、私にできる精一杯なのではないだろうか。逃げもしなければ、あえて向かっていくこともせず、ただそれがやってくるのを待つだけだ。

さて、私のことばかり話しても仕方がない。改めて聖書の語ることに耳を傾け、そこに書かれていることに目を向けてみよう。「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。『アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。』」(マルコの福音14章35~36節)

イエス・キリストはどのようなお方であったか、今一度振り返ってみたい。悪い霊を追い出し、死んだ者を甦らせ、人々の病を癒やし、無から有を作り出すことのできる、イスラエルの来たるべき王として多くの人々から期待され尊敬されていたお方であったはずだ。神のひとり子として、また神ご自身として完全無欠な存在であった。それを考えると、果たしてイエス・キリストに私が日頃から感じるような、嫌なことから逃れたいなどと弱気になる気持ちなど、とうてい分からないのではないかと思ってしまう。だが、イエス・キリストでも嫌なことがあったようだ。

キリストが自分の身に、これから何が起こるのかを知っておられたということは、前回も見た通りである。まず、弟子の一人が金を目当てに彼を祭司長、律法学者、長老たちに引き渡すということ、そして、彼の体が裂かれ、その血が流されるということ、また信頼していた弟子の一人に他人扱いされるということ。どう考えても嬉しいものではない。神の子であるが、同時にひとりの人間でもあったイエスは、そのようなことから逃れることができれば、と思ったのだ。イエスにも弱いところがあった……たしかにそう言えないこともないだろう。しかしだからと言って、イエスを頼ることはできないとか、救い主としては不甲斐ないとか、そう考えてしまうのは間違いであろう。むしろ、こう考えることもできるのではないか。イエスは神でありながら、人の弱さ、人の感じる恐れを自らの体験として知っていた、と。一般的に思われているように、神は雲の上から人間の営みを見ているだけの存在ではないということを、イエスを通じて知ることができるのではないか。

さて、イエスは嫌なことに積極的に立ち向かっただろうか。神の子であれば、そして理想的な人間であれば、そうしたとしても不思議ではなさそうである。だが、そうではなかった。彼は「もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り」また「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と祈ったのだ。やはり避けたいものは、避けたかったのだ。しかし彼は続けてこう祈っている。「父よ。……わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」彼は自らの思いではなく、神の思いが達成されることを願ったのだ。

辛いことは辛いことに違いない。嫌なことは避けたいというのが、人間としてのキリストの正直な思いであったろう。その思いを彼は否定しようとはしなかった。また人間としてそれを自らの意志で克服しようともしなかった。ただ、神の意志が成ることを願うのだった。自分が何を恐れ入るかに目を向けるのではなく、神が何を望んでいるかに目を向ければ、それが人を強くするのかもしれない。