イエス、現れる

イエス・キリストに出会ったことのある人は、果たしているのだろうか。

もちろん、イエスと同じ時代に、同じ場所で生きてきた人たちは別とする。ここで私が言いたいのは、比喩的な意味ではない。もののたとえという観点からすれば、信仰者であれば、おそらく誰でもが「キリストに出会って私は信仰を持つようになりました」と言うことができるだろう。誰だって出会ったことのない者を信じることはないに違いない。だがそれは、第六感というか、心で感じ取った救い主との出会いであろう。ところが物理的、すなわち五感で感じることのできる方法でキリストに出会ったことのある人は、どれほどいるのだろうか。信仰者のすべてが目に見える方法で、耳で聞こえる方法で、手で触れられる方法で、キリストと出会ったことがあるというわけではない。当然と言えば、当然のことだろう。なんせイエスは二千年もの昔に、十字架の上で死なれたからだ。今の時代、イエスに会うということは、あまり考えられるものではない。もちろん、神の子であるイエスのことだから、そうしようと思えば、いつでも私たちの前に姿を現すこともできるだろうし、私たちと握手をしようと考えれば、そうすることもできるに違いない。だが、なぜかそう言った話を聞くことがない。とはいえ、世界は広い。もしかしたら、奇跡が起きて、イエスと出会ったことがあるという人も、ごくわずかかもしれないが、いるかもしれない。だが、私の身近では、そんな話を聞いたことがない。

だが、ふと思うのである。もし、キリストが実際に私の目の前に現れたらどうするだろうか……きっと、ひれ伏して礼拝するだろう。なんて言うのは、模範的な回答である。模範的ではあるが、私の正直な回答ではない。冷静になって考えてみよう。例えば、近所のコンビニに買い物へ行ったとする。そこでウーロン茶にするか、緑茶にするか、それとも趣向を変えて紅茶でも買おうかと悩んでいるところに、おもむろに一人の中東系の男性がやってきて、こう言ったとしよう。「私はあなたの救い主、イエス・キリストである。」

まず「はぁ!?」と言ってしまうだろう。いや、それでも声が出るだけ、何らかのリアクションがあるだけマシかもしれない。「何言ってんだコイツぁ?」と思って、聞かなかった振りをして、無視するに違いない。しつこく何度も迫ってきて、明らかに私以外の誰にも見えないとすれば、少しは不審に思うかもしれないが、それでもまだ信じることはないだろう。もしかしたら私の信仰が足りないだけなのかもしれないが、頭の中では「イエスが今の日本にいるわけがない、ましてやコンビニなどにいるわけがない」と考えてしまうからである。

さて話を聖書に戻すが、イエスが十字架に付けられて殺され、有志によって埋葬され、その後三日目に復活されたのは有名な話であるから、ここでは省かせてもらう。問題はその後のことだ。「週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。」(マルコの福音16章9~10節)

イエスの復活という、本来であれば弟子たちや信徒たちにとっては好ましい知らせを告げられたわけだから、喜んで然るべきだと思うのだが、現実には「彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった」(同11節)のだ。その後、マリヤの話を聞いた別の二人の人物が、別の場所でイエスと出会ったのだが、やはり誰も彼らの話を信じようとはしなかった。

言い訳をするつもりではないが、二千年の後に生きる私が信じないのは仕方がないかもしれない。しかし、わずか数日前までイエスと一緒にいて、その話を聞き、その奇跡を間近で目にした人々が、イエスが現れたことを信じなかったのである。やはり彼らも「イエスは死んでしまった、現れるわけがない」と考えていたのだろう。いくらイエスが死者をよみがえらせることができたとしても、当の本人が死んでしまっては……そう考えたとしても無理はないだろう。

そこで疑問に思ったのだが、なぜイエスは全員のところに姿を現さずに、マリヤと二人の弟子に、まず姿を見せたのだろうか。残念ながら、その答えは私には分からない。後のことになるが、使徒の働きでは、彼を迫害していたパウロに現れたことを考えると、必ずしも信仰のある人々にだけ姿を見せるということでもない。やはり誰に姿を見せるかは、イエス・キリストご自身が決められるのだろう。であれば、もしかしたら、私たちにもその機会が巡ってくるかもしれない。いざその時になって、疑うことのないだけの信仰が欲しいものである。