世界の果てまで

久しぶりに筆を執る……いや、文字通り筆やペンを手にして、何かを書くというわけではない。もののたとえとして言ったまでだ。久しぶりに家のパソコンのキーボードを叩くと言うと、ちょっと味気ないと思ったまでだ。が、本当のことを言うとそれだけでもない。筆を執ると言うと、なんかそれっぽくて、どことなく知的な雰囲気をただよわせるような。そんなわけで、せめて一度くらいは使ってみたかっただけと言えないこともない。もっともどれほど賢そうな振りをしても、そうではないことは自分自身が重々承知している。もしかしたら、もう見破られているかもしれないから、無駄なあがきはなるべき控えた方がよいだろう。さて、つまらぬ前置きはそれくらいにして、本題に入らせて頂こう。

しばらくの間、マルコの福音を見てきたのだが、気付いてみれば、この福音書も終盤を迎える。最後にイエスはこのように弟子たちに語っている。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコの福音16章15~18節)

ところで、これと似たような記述をマタイの福音の最終章にも見ることができる。マタイに書かれているものは、一般的にキリスト教界で「大宣教命令(The Great Commission)」と呼ばれているものである。ところでこれは私の個人的な見解であるが、命令というと、何やら強制的なイメージがつきまとってしまうから、好きではない。それに、Commissionには命令という意味は無かったはずだ。どちらかいうと、権威者から権威を譲り受ける、託されるというのが本来の意味であったと思う。私としては「大宣教委任」と言いたい。(なんか舌を噛みそうではあるが。)

ついでの話になってしまうが、一説によると、マルコの福音の記述は、2世紀頃にマタイの内容をもとにして書き足されたと言われている。それもあってか、大宣教云々というと、多くの場合はマタイの福音を示すらしい。が、そんな細かいことはどうでもいいんじゃないか。仮に後から書き足されたものだとしても、元になっているものがマタイの福音であり、さらにそれの元になっているのは、イエス・キリストご自身の口から出たことばなのであるから、たとえ間に二百年の時があったとして、マルコの福音版大宣教委任も、その意味や重要性については変わりがないはずだ。もし時間の経過と共に、聖書に書かれている中身が薄れてしまうのであれば、今の時代に聖書を読むような人は、一部の学者か、さもなくば古典好きな人たちくらいであろう。だが、実際には今でも多くの人々に読まれている。それも、信仰を持っている人だけに限られているわけでもない。

何やら話が逸れてしまいそうになったが、イエスの「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」というこのことばであるが、もとは十一人の弟子たちに向けられたものである。だったら、私たちには関係ないじゃないか、と考えてしまうかもしれない。たしかに狭義ではキリストの弟子はこの十一人かもしれないが、広義ではキリストを信じ、彼に従おうと考えている者は誰でもキリストの弟子であろう。これが単なる「委任(Commission)」ではなく「大委任(The Great Commission)」と呼ばれている理由の一つであろう。

では、世界に出て福音を伝えることで何が起こるのか。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」単純と言えば、この上なく単純なことである。つまり福音を伝えることで、さらに多くの人々が、キリストを救い主として信じて受け入れ、神の御国の民が増えるということであり、ひいては神の御国の領土が広がるようなものであろう。そして、キリストを信じた人が、また世の中に出て行って……福音はとどまるところを知らずに広がって行くのだ。その意味や目的、また規模においても「大委任」と呼ぶことができるだろう。そんなうまい話があるかいな、と疑ってしまうかもしれないが、現実に世界中に福音が伝わっているところを見ると、疑う余地もない。

さて、任された責務を果たしていないという後ろめたさがあるからだろうか。なぜだかキリストのこのことばだけは、私のような冷めた信仰者の内にも留まっているのだ。果たして私のような者でも福音を伝えることができるのだろうかと考えないでもないが、人は自分一人の力で働くのではない。常にキリストが共におり、伝えることを確かなものとして下さるのだ。「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(同20節)