災い転じて

普通に考えれば不幸になりたいという人はいないだろう。仮に不幸だとしても、ずっとその境遇に留まっていたいと思う人も、おそらくいないだろうと思う。誰だって不幸でいるよりは、幸せでいたいと考えるに違いない。幸せの定義というものが十人十色であるとしてもだ。だが人は不思議なもので、不幸自慢や不幸比べをしたくなってしまう生き物らしい。自分はこれだけ苦労しているとか、自分はこんな大変な目に遭ったとか、なぜか人は自分の身に起きた悪いことをこれ見よがしに人に語ってしまうのである。そんなに暗い思い出なら、何も人に話さないでもいいのではないかと思うのであるが、どうして人は矛盾したようなことをするのだろうか。人から同情されたいからなのだろうか。人から哀れまれたいからなのだろうか。はたまた自分より不幸な人を見つけて、自らを慰めようとでもいうのだろうか。もっとも意図的にそんなことをする人はいないだろうが、なんというか、人間とは嫌らしいものである。

もし本当に不幸のどん底に叩き落とされた人だったら、そんな自慢話をするような余裕はないだろう。そうだとしたら、口に出して言っているうちは、不幸ではないのかもしれない。さて不平や不満は積もるほどあるにしても、幸いにも、私は自分が不幸だと思ったことはないから、いわゆる不幸な人の気持ちは正直に言えば分からない。そんなわけだから、今まで私が言ったことは推測でしかない。もし間違っていたら、申し訳ない。あらかじめ謝っておこう。

ところで、聖書にも「あぁ、これは悲惨としか言いようがない」と思ってしまうような目に遭った人がいないわけではない。例えば旧約聖書に登場するヨブなどは、その最たる存在であろう。もっとも最初から彼は不運に見舞われていたわけではない。むしろその反対である。「彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。」(ヨブ記1章2~4節)だからといって彼は強欲であったわけでもなく、悪事に手を染めていたわけでもない。「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた」(同1節)と書かれているくらいだから、悪事とはまったく縁のない人物であったのだろう。神御自身も彼を評してこう言っているほどだ。「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(同8節)彼の財産は神の祝福と考えてもおかしくはない。

さて、そのようなヨブに一体に何が起こったか。彼の子供たちは突然の嵐で家と共に潰され死んでしまい、また多くの家畜としもべは略奪にあったり、災害に巻き込まれたりで、全滅してしまった。それどころか、流した涙がまだ乾かぬうちに、今度は彼自身が病に冒されてしまった。話を聞いた彼の三人の友人が、彼を慰めようとやってきたが七日間の一緒いたが、掛ける言葉を見つけることができずに、黙って一緒にいるだけだった。やがて彼は自分自身がこの世に誕生したことをのろったのだ。

ところで、彼と三人の友人のやりとりを聞いていたエリフという人物がいた。エリフはヨブたちに怒りを覚えたという。なぜなら「ヨブが神よりもむしろ自分自身を義としたから」(32章2節)であり「彼ら(三人の友人)がヨブを罪ある者としながら、言い返すことができなかったから」(同3節)だそうだ。また神御自身もヨブにこう言っている。「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」(40章2節)

つまり、ヨブも完全ではなかったのだ。彼の問題は、災いに見舞われた時に神に目を向けるのではなく、自分自身に目を向けてしまったなのかもしれない。だが彼は、自らの過ちにすぐに気付いた。「あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです。一度、私は語りましたが、もう口答えしません。二度と、私はくり返しません。」(同4~5節)そして彼は、ちりと灰の中で悔い改めたのだ。(42章6節)

さて、結局ヨブはどうなったかと言えば、不幸に襲われる前よりも恵まれた人生を送ることになったという。(同12節)世の中、何がどうなるかは分からない。絶頂にあるかと思えば、次の瞬間には谷底に叩き落とされるかもしれない。確かなことは、神に目を向けてさえいれば、最後には祝福に変わるだろう。