まず罪があって

人はどこからやってきたのだろうか。などと書いてみると、どことなく思慮分別がありそうで、頭が良さそうに聞こえそうだ……なんて、そんなワケないだろう、こと私に限って言えばなおさらだ。いずれにせよ、すでに議論が尽くされた話題である。今になって、このようなことを言い出したところで、人は何とも感じないに違いない。

それにしても、人は果たしてどこからやってきたのだろうか。世の中の議論を二つに大別するのであれば、長い年月の進化の過程を経て今日の人間になったという意見と、神が人間を創られたという意見になるだろう。前者がいわゆる進化論というものであり、後者が創造論というものである。もちろん、世界は広い。人は別の惑星からやってきたという意見もあるだろうし、人はコンピューターのプログラムの一部だという意見もあるかもしれない。千差万別であろうから、なかには独創的でおもしろい意見もあるだろうが、片っ端から見ていくときりがないので、今回は除かせてもらう。さて進化論と創造論であるが、私は専門家ではないから細かいことは何とも言えない。公平な目で見るとしても、どちらが正しいかについても今は考えようとは思わない。

一般的に思われていることは、進化論というのは科学的であり、創造論というのは非科学的であるということではないだろうか。海外ではいざ知らず、少なくとも日本では進化論が当たり前のことで、創造論はただの物語、神話として扱われているようである。そのような話題を口にすることさえ時代遅れなことを言っていると思われがちであろう。確かに、創造論が非科学的であることは認めよう。例えば聖書には人類の始まりがこう書かれている。「神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1章27節)私がキリスト者であるから、聖書をたとえに出したまでで、日本には古事記や日本書紀があるし、調べたことはないが、世界には様々な天地創世や人類創造の話が伝えられているだろう。だが、それらは伝承や信仰が元になったものであり、今日の基準から見れば「科学的」とは言えないに違いない。

では、進化論が科学的かどうかと言えば、素人考えでしかないが、実はさほどでもないのではないか。確かに学説としては知名度があるし、話の筋は通っているようでもある。だが、それが事実であるとは、まだ証明されていない。近頃話題になった、なんとか細胞ではないが、管理された環境において、再現することができないのだから、仮説の域から出られないでいるのではないか。たとえそれが定説ではあったとしても、事実であるとは言えまい。間接証拠を元に立てられた説であり、なおかつ大勢に受け入れられているというだけの話でしかない。マイナスイオンが体に良いとか、磁石で血行が良くなるとか、確たる根拠がないにも関わらず、「それっぽいから」という理由で信奉者が多いのと、どこか似通っているように思われる。

そう考えると、どちらが正しいという議論は、そもそも成り立たないであろう。せいぜい、どちらを「信仰」するかということであろう。というわけで、聖書を信仰の土台とする私は、創世記の一章から二章に書かれているように、神が天と地、およびそこに住む全ての生き物を創造したという説の方を受け入れている。ところで神が最初に人をこの世界に誕生させたとき、神は御自身の創造物に対してどのような感想を持っただろうか。「そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。」(同31節)

その当時、神の目から見て人は善いものであったという。さて、我が身を顧みて思うのであるが、人が善であったという面影はどこにも残されていない。一体、人はどこで道を誤ったのか。あろうことか人の罪は、神が創造されて、神に良いとみなされた、最初の人アダムから始まったのである。言うなれば、人の創造は、罪の始まりにもなったのである。だが神がそれを望まれたわけでもなければ、神が罪を創られたわけでもない。残念ながら、人が罪を選んでしまったのだ。

以来、人と罪は腐れ縁で結ばれることになったのである。人として生まれたからには逃れることができないだろう。であるから「私はなんと罪深いのだろう」と、必要以上に自らを責めることもない。だからと言って、開き直ればよいというものでもない。あまり健全な考えではないかもしれないが、自分の過ちを誰かのせいにしたければ、アダムのせいにしてしまうのも、ありかもしれない。しかし、アダムを責めているだけでは罪は消えない。なぜなら彼が人類にもたらしたのは、罪であって赦しではないからだ。赦しを人類にもたらしたのは、アダムではなくイエス・キリストである。キリストの赦しによって、人と罪の縁は切れ、再び人は神と縁を結ぶことができるようになったのだ。