信仰の土台

私にとって信仰の土台となっているものは、聖書をおいて他にない。人によってはそれこそ病気が癒やされたなどの、個人的な体験もあるのかもしれないが、私にはそのようなことがない。今までもなかったし、これからもない……とはさすがに言い切れないが、ひとまず今のところは信仰の礎となるような具体的な経験というものはない。言うなれば、聖書を離れては私の信仰は存在することさえないだろう。そもそも私が信仰を持つきっかけになったのも、聖書である。そして聖書であるが、旧約聖書と新約聖書を合わせた66巻が全てである。聖書には外典というものが存在するが、その歴史的な価値を否定しないにしても、過去二千年にわたる教会の歴史を通じて、正式に認められなかったことを考えると、やはり何かが違ったのだろう。すなわち私の信仰というものは、この66冊の書物に基づいて神を信ずるという意思なのである。そこには何ら神秘性などというものは存在しない。期待されていたら、申し訳ないことではあるが。

しかし私も人生を通じて常に信仰を持っていたわけではない。私が信仰を持つようになったのは、ちょっと正確な数字は思い出せないが、二十歳くらいの時だった。つまりその時までは、信仰とはまったく縁の無い日々を送っていたのだ。もちろん信仰はなくとも、一般的な知識として、聖書の存在は知っていたし、世界史の年表に出てきたので、イエス・キリストの名前くらいは聞いたこともあった。クリスマスの時期に、ふと気になって本屋で聖書を手にとって見たこともあったが、ちゃんと読むことはなかった。おそらくその当時の私にとっては、聖書というのは「キリスト教の聖典、経典」という程度の理解しかなかっただろうし、そこには何か難しく理解しがたいこと、さもなくば何やら神秘的な謎めいたことが書かれているのではないかと、勝手に想像していたに違いない。

だが実際には聖書はそれほど特殊なものではない。確かに難解なところや意味深長な記述があることにはあるが、ごく一部に過ぎない。大半は普通に誰にでも分かる言葉で書かれているのだ。聖書は神のことばであるが、それを書き残したのは人間である。そう考えてみると、聖書に神秘性はないということも納得ができよう。所詮、聖書と言っても、ただの紙きれに字が印刷されているだけのものである。他の書籍と比べて異なることなど何もない。むしろコート紙にカラー印刷されているだけ、雑誌の方が見栄えが良い。聖書なんて、辞書と同じように裏側のページが透けて見えるほどで、どちらかと言えばぺらぺらしてチープな感じは否めない。もっとも、聖書も辞書も情報量が多いので、コート紙を使ったら、とてもじゃないが一冊の書籍にまとめることはできないからだろうが。

言い方は悪いかもしれないが、聖書そのものには何の価値もないのである。聖書を持っているからと言って、災難から身を守ることができるわけではない。日本人的に考えるような「お守り」としての効能はゼロである。以前、アメリカでバスの運転手がギャングに襲われた時に、ポケットの中の聖書が銃弾を防いだというニュースがあったが、実はあれは運転手の狂言だったということもあった。結局のところ、物としての聖書には、何のありがたみもないし、それを求めることがそもそもの間違いなのである。

肝心なのは、そこに何が書かれているかということである。聖書は飾っておいても意味が無い。読んでこそ意義があるものだ。大事に仕舞っておいても価値が出るものではない。手垢がつくほどにページをめくってこそ得るものがあるのだ。

神のことばを人が書いたからといって、著者が何かに憑かれたかのように催眠状態で書いたものでもない。たとえば、新約聖書のある福音書の冒頭にはこうある。「私たちの間ですでに確信されている出来事については、多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(ルカの福音1章1~4節)

一説ではルカはパウロの同僚であり、医者であったと言われている。一人の医師が、綿密に調べ上げたその結果が聖書の中に残されているのだ。現代とは違って、情報を集めるのが難しかった時代のことだから、すべてが正しく記録されているかどうかは分からない。だが、今日でさえ完全に正しいことを記事にするのは難しいというか、不可能に近いものがあるだろう。

それではルカは何をどのように記録したのだろうかを、これから見ていこうと思う。