ザカリヤとエリサベツ

「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」(ルカの福音1章5節)ルカはイエス・キリストについて書く前に、まずはザカリヤという名の祭司と、その妻エリサベツについて書いている。クリスマスの物語には、ほぼ間違いなく登場するこの二人であるが、実は福音書では、いや聖書全体を通じても、この二人が顔を出すのは、ルカによって記された福音書の書き出しの部分でしかない。

さて新約聖書で祭司というと、どうもよろしくない姿ばかりが印象に残っているのではないだろうか。それというのも、彼らは因習や決まり事にとらわれてばかりで、イエス・キリストが誰であるかを認めようともせずに、彼を敵視するばかりか、どのようにしたら彼を陥れることができるだろうかと、律法学者たちと一緒に策を練っていたではないか。つまりは「悪役」として登場する場面が多いのだ。もちろん、そのような祭司ばかりだったわけではないだろう。「神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行なっていた。」(同6節)ザカリヤにしても、その妻エリサベツにしても神の前に正しい生き方をした人物であったということは確かであろう。

ついでに言うと、ルカは二人についてこのようにも言っている。「エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。」(同7節)二人はこのことをどう考えていたのだろうか。残念ながら、ルカはそのことについては何も書いていない。もしかしたら子供を願いながらも、諦めていたかもしれない。二人に直接話を聞かない限りは、その答えが分からないだろう。二人が高齢であったことを考えると、ルカの時代にはもはやこの世の人ではなかったとしてもおかしくはない。

ところでザカリヤであるが、ある時祭司の勤めとして神殿に入って香をたくことになったそうだ。神殿の主である神のために、外で祈りを捧げる民のため、おそらく彼はそれだけを考えて神殿に入っていったのだろう。だが、彼はそこで思いがけないことを経験することになったのだ。なんと「主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った」(同11節)のを見たのだ。これはさすがのザカリヤにとっても生まれて初めてのことだったに違いない。彼はあまりのことに恐怖すら感じてしまったというのだ。だが神の使いは彼にこう言ったそうだ。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。」(同13節)

どうやら、ザカリヤは子供を授かることを願っていたようだ。だが彼は御使いの言葉をすぐには信じられなかったようだ。神の前に正しいと認められるほどの信仰があってしても、信じられないほどのことだったに違いない。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」(同18節)

ここまで読んでいくと、似たような話を、前にどこかで聞いたことがあるような、ないような、という気がする。いや、気のせいではない。旧約聖書にも同じような話があったはずだ。たしか創世記にあったはずだ。アブラハムとその妻サラの話である。この二人も歳を取っており、跡取りとなる子供がいなかったという。だが、神はそのような二人にも子供を授けると言ったではないか。「わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」(創世記17章16節)今日では信仰の父と考えられているアブラハムであるが、神のことばに対する反応を見る限り、彼でさえもにわかには信じられなかったようだ。「アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。『百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。』」(同17節)

状況が似ているからそう思えてしまうだけであって、もしかしたら私の考え過ぎと思われてしまうかもしれないが、ルカはこれを読む人がアブラハムとサラの物語を思い出すようにと、意図して書いたのではないかと私は思うのだ。人の考えでは、まずあり得ないようなことであったとしても、神がそれを為すと宣言されたのであれば、それが必ず実現するということは、旧約聖書の時代であっても、新約聖書の時代であっても同じなのである。ルカが伝えようとしたことは、他にもあるだろうが、ザカリヤとエリサベツの二人の物語から、神の約束はいつの時代も変わらないものであると知ることができよう。