疑うのは損

どちらかと言えば、私は疑い深い方である。悪く言えば、素直ではないとも言えるし、良く言えば、用心深いとも言えよう。世間の言っていることをそのまま受け入れることはほとんどないし、まず自分が納得できない物事を信じようとは思わない。だから私は、磁気が血行を良くするとか、マイナスイオンが健康に良いとか、その手の話をまったく信じてはいないし、それを売りにしている商品を買いたいとは思わない。まぁ、人が何を信じるかは自由であるが、私を納得させることのできる根拠がないものについては、私が信じることがないだろう。そんな私がクリスチャンをやっているんだから、不思議といえば不思議に思われるかもしれない。が、今はそれは余談になってしまうので、ひとまず置いておくとしよう。

ところで神の前に正しく生きていた祭司ザカリヤと、世俗の欲にまみれた私の間には共通点と言えるほどのものはないはずだが、ザカリヤほどの人物であっても、私のように物事を疑うことがあったようだ。神殿で彼が祭司としての勤めを果たしているときに、神の御使いが現れて、彼と妻エリサベツの間に男の子が生まれると告げられたということは、前回も見た通りである。その時、彼は御使いに、こう言っている。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」(ルカの福音1章18節)

どうやらザカリヤは神の使者の姿を目にしながら、そしてその声を直接聞いていたにも関わらず、その言葉を素直に信じられなかったようだ。彼はその約束を信じるだけの根拠が欲しいと思ったのだろう。さすがに信仰心の薄い私であるが、もし神の使いが私の前に現れて、直接私に語り掛けたとしたら、恐れ多くて疑うことなどできないかもしれない。だがそれ以前に、目の前に立つ存在が、果たして神の御使いであるかを疑ってしまうかもしれないが。

さて、話をザカリヤに戻そう。その時のことを、ルカはこのように書き残している。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」(同19~20節)

残念ながら、ザカリヤの求める通りにはいかなかった。それどころか、神の使いが伝えた知らせを信じなかったということで、御使いは文字通りザカリヤの口を封じてしまった。これでは、会話を続けることはできない。何もザカリヤの肩を持つわけでもないが、そこまで厳しくしなくともよかったのではないか、とこの箇所を読む度に思ってしまうのだ。とは言え、改めて読んでみると気付くことがある。彼のところに現れた御使いガブリエルには、明確な目的があったのではないか。それは御使い自身も言っているように「喜びのおとずれを伝える」ことである。つまり証拠や根拠を提示して、彼を説得することではなかったのだ。さらにガブリエルは、彼のことばは時が来れば実現する、とも言っている。言い換えれば、喜びのおとずれは時が来れば実現する、ということであろうか。ただそれだけを信じれば良かったのだろうが、ザカリヤは疑ってしまった。気持ちは分からなくもない。どんなに良い知らせであったとしても、自らが置かれている現実を見てしまうと、信じられなくなってしまうということはあるのではないか。もちろん、信じたくないというわけではないのだが。

「その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。『主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。』」(同24~25節)

ザカリヤが祭司としての勤めを終えた後、程なくしてガブリエルの言ったとおりになったのだ。その時、彼はどう思っただろうか。ルカがそのことについて何も書き残していないことを考えると、おそらく重要なことではなかったのかもしれない。しかしザカリヤの口が閉ざされてしまったことを思うと、喜びを人々に伝えることができずに、後悔とまでは行かずとも残念に感じたかもしれない。さすがにザカリヤほどの経験をすることはないだろうが、神からの良い知らせがあったとしたら、疑わずにそのまま受け入れるだけの従順さが欲しいものである。