マリヤの賛美

起こり得ないことが起きたという奇跡を、神の御使いから知らされた、いや、知らされたどころか、自らが体験することになったマリヤであるが、その後どうしたであろうか。普通であれば、何か良いことが起きたら、誰かに知らせたくなってしまうものであるが、状況が状況だけに、彼女は誰にも話さなかったことだろう。もし近所の人に話してまわったとしたら、可哀想に気が変になってしまったに違いない、と思われたことだろう。それどころか、婚約者であるヨセフに呆れられて、結婚が取りやめになってしまうかもしれない。それだけは避けたかったことだろう。さらには、未婚であるのに妊娠していることがばれたりでもしたら、たとえそれが神の御力によるものだったとしても、果たして人がそれを信じるだろうか。人は他人の良いところよりも悪いところを見ようとするものであろう。それこそ、彼女のことを不道徳の女として、石を投げつけてしまうかもしれない。などと、色々と考えたのだろう。彼女は御使いガブリエルから告げられたことを、誰にも言わなかった。たった一人を除いては。

ルカはその時のことを、このように記述している。「そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。」(ルカの福音1章39~40節)彼女は知り合いのエリサベツにだけは、自分の身に起こったことを知らせようとしたのかもしれない。なぜならエリサベツも似たような奇跡を体験していることを、マリヤは知っていたからで、もしかしたら話しを聞いてもらい、理解してもらえると考えたのだろう。そして、エリサベツにお祝いの言葉を伝えたかったのかもしれない。

二度あることは三度ある、とはちょっと違うかもしれないが、ひとつの奇跡は、さらなる別の不思議なことを引き起こすのだろうか。「エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。そして大声をあげて言った。『あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳にはいったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。』」(同41~45節)

マリヤがエリサベツにあいさつをしたというたったそれだけの、誰もが毎日やっているほどありふれたことであるのに、エリサベツの「子が胎内でおどり」、また彼女自身も「聖霊に満たされた」のである。さながら奇跡の連鎖のようなものであろう。赤ん坊は母親の胎内にいる頃から、外の世界の出来事を感じることができると言われているが、おそらくマリヤの声を聞いて、胎内の赤ん坊は今までとは違う何かを感じ取ったのかもしれない。また聖霊に満たされたエリサベツはマリヤが話す前に、若いマリヤの身に一体何が起こったのかを知ることになったのだろう。

「マリヤは言った。『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。』」(同46~48節)

おそらくこの時、マリヤの身に起きた奇跡を知っていたのは、彼女自身とエリサベツの二人だけだったと考えることができよう。マリヤとしては不安がなかったわけでもないだろう。人には言えぬ秘密を持っているから、周りの人と落ち着いて顔を合わすことも、話すこともできなかっただろう。そうだとすれば、孤独でもあったに違いない。結果として三ヶ月もエリサベツと一緒にいたことを考えると、おそらく他に身を落ち着ける場所もなかったのかもしれない。彼女がどのように感じていたかは分からない。だが、彼女の口からは心配や恐れを思わせる言葉は出てこなかった。「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」(同49~54節)

それどころか、彼女の口から出たものは、神を讃える賛美だった。エリサベツの言葉を借りるのであれば「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」

きっと、マリヤは神の約束を信じきっていたのだろう。