彼の名はヨハネ

さて、マリヤがエリサベツのところから帰った後のことである。神の御使いがザカリヤに伝えた通りになった。その時のことを、ルカはこのように書き記している。「月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。」(ルカの福音1章57~58節)確かにその通りなのであるが、それにしてもずいぶんとあっさりと書かれているものである。神の奇跡、神の約束が成就したのだから、週刊誌の宣伝のように大げさとまではいかなくとも、もう少し書きようがあったのではないかと思ってしまう。

だが考えてみるに、もしかしたらルカはエリサベツが赤ん坊を産んだということよりも、もっと伝えたかったことがあったのかもしれない。つまり祭司の妻が高齢出産をしたという話題よりも、もっと重要なことがあったと考えることができよう。私が思うに、おそらくその重要なこととは、この赤ん坊がどのような人物になるかということではないだろうか。御使いはザカリヤにこの言っている。「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(同14~17節)

御使いのことばによると、生まれてくる赤ん坊は、神の前にすぐれた者となるべき子供であった。もしエリサベツが男の子を産むということを、神が最大の目的として考えていたのであれば、おそらくもっと多くのことをルカは語ったに違いない。だが実際には誕生そのものについては、わずか二節にまとめられているだけである。むしろまだこの世に誕生する前に、御使いが子供について語った内容だけでも四節も書かれている。どちらが重要であるかは、さして難しいことでもないだろう。

では、ザカリヤとエリサベツの子供はどのような人物になるのだろうか。御使いのことばを順に追ってみたい。

御使いガブリエルはこう語っている。「その子はあなた(ザカリヤ)にとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」(同14節)確かに子供の誕生とは、親にとっては喜ばしいものである。しかし多くの場合、その喜びとは子供の誕生そのことについてであり、その子が将来どうなるからというものではないだろう。我が身の明日さえも分からぬ人間に、我が子の明日など知るすべもない。だが御使いによると、人々が喜ぶのは、その子が「主の御前にすぐれた者となるから」(同15節)ということらしい。とは言っても、やはりザカリヤにしてもエリサベツにしても、彼らの喜びはそのような難しいものではなく、単純に我が子の誕生に対してのものであったろう。その子がどのようにして神に認められることになるかは、知る由もなかったに違いない。

さらに赤ん坊は「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」(同15節)ていたという。これは父であるザカリヤには分からなかったであろうが、実際にそれを経験した母エリサベツはどのようなものであったかを、自らの体験としても感じていたことだろう。これについては前回も見た通りなので、今は省かせてもらうとしよう。

そしてその子は、どのような者になるのであろうか。ガブリエルはこう言っている。「イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。……こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」(同16~17節)つまり、こういうことだろうか。神から心が離れていった人々の心を、再び神に向けさせる役目を担うことになるということだ。それは人々のためというだけではなく、神のためでもあるという。ザカリヤとエリサベツの間に生まれてきた子は、父の後を継いで人々の代理として神の御前に立つ祭司になるのではなく、人々が祭司を介すことなく直接神に向き合うことができるように道を整えるというのが、神がその子に託した働きだった。祭司としての働きというよりは、旧約聖書の時代の預言者のそれに近いものだったろう。

ところで、これらのことに先立ってガブリエルがザカリヤに伝えていることがある。「名をヨハネとつけなさい。」(同13節)名前なんて、どうでもいいじゃないか、と思ってしまうが、これにも何かの理由か目的があったのだろう。まずヨハネという名の意味であるが「主は恵み深い、慈悲深い」となる。その子が将来人々に伝えるであろう事柄が、彼の名前に込められているのだろう。周囲の人々は訝しく思ったようだが、ザカリヤは御使いの示した通り、息子にヨハネと名付ける時に決めた。その時、ザカリヤもまた聖霊に満たされ、こう言ったそうだ。「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。これはわれらの神の深いあわれみによる。」(同76~78節)