エッサイの家

11月も残すところあとわずか。ふと気付いてみれば、街の中はどこもかしこも、すっかりクリスマスに染まりつつある。今年も変わること無く、またこの時期がやってきたのか、と思ってしまう。とは言っても、心が躍るわけでもなければ、心が重くなるというわけでもない。むしろ冷めているというか、事務的というか、大した感慨もなく迎えていると言った方が正直であろう。それにしても、毎年のように不思議に思うのだが、信仰があるわけでもないのに、なぜ多くの人々はクリスマスにこれほどまで盛り上がることができるのだろうか。その一方で、信仰があるにも関わらず、なぜさほどにテンションの上がらない私がいたりするのだろうか。救い主であるイエス・キリストがこの世に誕生したことを記念する時であれば、なおのこと信仰者としては気持ちの高まりを感じたり、色々と考えることがあったとしても当然なのかもしれないが、どうにもそのような気分にならないのである。もしかしたら、信仰者の理想の在り方とはかけ離れた私の姿なのかもしれないが、果たして私のような感性の持ち主は少ないのだろうか。

何も自分の立場を弁護するわけでもないが、もしかしたらルカの福音を書いた著者も私と似たような思いを持っていたのではないかと考えてしまう。もっとも当時は今のような「クリスマス」という考え方がなかったからだと言えば、それもそうかもしれないのだが、どうやらルカもイエス・キリストが誕生したという事については、さほど強い思い入れがあったようには思えない。もちろん、これは私の勝手な推測でしかないことだけは、改めて言っておくが。

それではキリストが生まれたときのことを、ルカはどのように書き記しているだろうか。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」(ルカの福音2章1~5節)ずいぶんと前置きが長いようであるが、まずはマリヤと彼女の夫ヨハネがなぜベツレヘムに出掛けて行ったかということが書かれている。その後、いよいよキリストの誕生の場面である。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(同6~7節)以上、これだけである。何というか、拍子抜けするような簡潔さである。それどころか、前置きの方が長い。

イエス・キリストがこの世に誕生したということは、たしかに重要なことのひとつであろう。だが、それが全てではないと言うこともできよう。キリストがこの世に来られたということは、信仰の行き着くところではないし、また信仰の始まるところでもない。当然のことだが、信仰の対象でもない。なぜなら信仰の対象である神は、キリストが人としてこの世界に来られる前から存在していたからだ。冷めた言い方をするようだが、キリストの誕生すなわちクリスマスというのは、人類の歴史におけるひとつの出来事でしかないのだ。そのようなことを考えている私だから、どうも盛り上がることができないのである。

さて、話をルカに戻すが、なぜ彼はキリストの誕生そのことよりも、前置きに多くを費やしているのだろうか。その手掛かりを旧約聖書に見出すことができる。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。」(イザヤ書11章1~5節)

エッサイとは、ダビデの父親のことである。つまりマリヤの夫ヨセフは、ダビデの血を受け継いだ者であり、すなわちエッサイの子孫ということでもある。そしてヨセフとマリヤの間に生まれてくる子供も、自然な流れとしてエッサイとダビデの子孫ということになるのだ。イエスが生まれたという単純な事実よりも、彼がどのような家に生まれてきたのかをルカは伝えたかったのかもしれない。キリストがエッサイとダビデの故郷で、彼らの血筋として生まれてくるということは、イザヤによって語られた神の約束の成就であるということに他ならないからである。