あり得なさそうな

正直に言うが、赤ん坊というのは、実におそろしい存在ではないかと私は思うのだ。その小ささゆえに、見たところとても弱そうで脆そうで、ちょっとしたことで壊れてしまいそうである。だからその取り扱いに念入りにならざるをえない。まったくおそろしいものである。私の娘がまだ赤ん坊だった頃は、抱っこをするだけでも非常に神経を使ったものだ。まぁ、感謝なことではあるが、今日まで無事に育ってくれたおかげで、多少雑に扱っても壊れる心配はない。むしろこちらが雑に扱われて、こちらが壊れてしまうのではないかと、別の心配が出てくるのだが。とは言え、あの頃を思うと、生まれたばかりの長女を産湯に浸けるというのは、私にとってはなかなか度胸を求められることであった。

それにしても暖かいお湯の中で洗い清められ、きれいな産着に包まれて、柔らかな布団の上に寝かされる赤ん坊というのは、不思議と見ている者を安心させるものである。見ているだけだから、何の心配もないというのも事実かもしれないが、安全なところで休んでいる赤ん坊の姿というのは、何の不安も心配も恐れもない、平安というものが具現したものと言えよう。まぁ、所詮それもやがて訪れる嵐の前の静けさでしかないにしてもだ。

だがすべての赤ん坊がそのような安穏無事な環境に生まれるわけでもないというのも事実である。前回も見たが、ルカはイエス誕生の場面をこう書き記している。「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(ルカの福音2章6~7節)

イエス・キリストというとクリスマスの主役であるが、赤ん坊が産声を上げるにしては「あり得ないような」場所で生まれたというのが現実である。まぁ、宿屋に空きがなかったのは運が悪かったかもしれないし、もっと早い時間に宿を確保しておかなかった若い夫婦の不手際だったかもしれないから、後悔しても手遅れだが、それでもまだ馬小屋とはいえ雨風をしのげる場所があるだけ、野宿をしないで済んだだけでもマシではないか、とも思う。だが、馬小屋とは言うけれど、私たちが連想するような牧場で見掛ける馬小屋とはちょっと違う。なぜなら当時の馬小屋とは、小屋というよりも洞窟のようなものだったという。岩壁をくりぬいて、そこで家畜を飼っていたのだ。何もないよりは良いかもしれないが、本当にそれだけである。しかも寝かされたのは飼葉おけというではないか。どうも衛生的ではない。赤ん坊がこのような扱いを受けていたら、今であれば虐待を疑われても仕方ないような状況である。端から見ていても、心配でしようがない。だが、これがイエス・キリスト誕生の真実なのである。今さら歴史を書き変えるわけにもいかないので、そのまま受け入れなければならないのであろう。

ところでちょうどその頃、「羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」(同8~12節)

神の御使いが誰だったのかは書かれていない。おそらく喜びの知らせを告げるために遣わされたガブリエルだったろう。どこで何をしていたのか、おおよそ十ヶ月ぶりの登場である。さて、それは余談であるが、彼がキリストの誕生をまず知らせたのは、荒野で羊の番をしていた羊飼いたちであった。考えようによっては、重大な知らせを告げる相手としては「あり得なさそうな」人たちであったろう。もしガブリエルがイエスの誕生を知らせた相手が、ザカリヤとエリサベツだったとしたら、何ら不思議なところはない。エリサベツはマリヤのことも知っていたわけだし、ザカリヤは祭司であったからイエスのことを大勢に知らせることもできたであろう。そして何より、彼らの息子ヨハネは「いと高き方の預言者」になることを期待されていたではないか。イエス誕生の知らせを受けるには、むしろ最も相応しい人たちではないか。

だが、あり得なさそうな事の連続が現実には起きたのだ。神の子は薄汚れて、おそらく換気も悪い洞窟で生まれ、温かなお湯で洗われることもなく、旅で汚れていたであろう布に包まれ、動物くさい飼葉おけに寝かされたのだ。またそれは荒野で野宿をしていた名も無き羊飼いたちに知らされたのである。神は人の理解を越えたことをされるお方であるというが、まさにその通りであろう。

イエス・キリストは特権階級に生まれたのではないし、また一部の選ばれた人々の救い主になるために生まれたわけでもない。名も無き普通の人々のための救い主として生まれたのだ。