求めるもの

子供はいいもんだ。クリスマスになるとサンタクロースからプレゼントをもらえるのだから。残念なことだが、大人になるとサンタからプレゼントをもらうこともなくなってしまうのだ。もっとも子供がサンタに期待するものはおもちゃかそれに近いものだろうから、サンタや小人たちにとっては、さほど経済的にも労働力的に負担にはならないのかもしれない。小さなおもちゃ程度であれば、トナカイたちだって苦労せずに運ぶこともできよう。ところが大人が期待するものは、さすがのサンタでさえも手に負えないものばかりかもしれない。

もし私がサンタにお願いをするとしたら、何を頼むだろうか。お金?いや、サンタにお金を作る権限はない。では、せめて宝くじの当たり券?ダメか、サンタに将来を見通す能力はない。富が無理なら、恋人とか?あ、これは足りているから論外か……もう十数年若ければ話は違って……。では、具体的に形のあるものなら可能だろうか。庭とプールと車庫がついた家とかはどうだろう?え、トナカイが運べないって。じゃあ家が無理なら車とか?コペンくらいだったらトナカイでも運べそうだし、なんだったらサンタが乗ってきてくれても構わない。あ、燃料、保険、税金は自腹を切れってことになるか。それじゃあ最初に戻って、やっぱりお金……何とも欲が深いものである。欲深な悪い大人では、サンタも相手にしたくないに違いない。

そもそも欲しいものがあれば、サンタクロースなどではなく、自分の財布に頼るというのが、大人というものなのだろう。夢がないと言ってしまえば、それっきりであるが、子供のためにも、サンタとトナカイと小人に余計な負担を掛けないのが大人の責任である。

とはいえ、贈り物に期待をするだけがクリスマスではない。しかし何も期待してはいけないというわけでもないし、何も求めるなというわけでもない。それでは、いくらなんでも寂し過ぎるというものだ。むしろクリスマスだからこそ期待すべきもの、求めるべきものがあるのではないだろうか。それが果たして何であるかは、史上最初のクリスマスの夜に起きたことに見出すことができる。

今まで見たところと重なってしまうが、ルカの福音書にはクリスマスの夜のことが、このように記録されている。「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、……彼らに言った。『恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカの福音2章8~12)

羊飼いたちは突然のことで驚いただろう。いや、もしかしたら驚いたどころではなかったかもしれない。恐ろしさのあまり、腰が抜けて、口が聞けなかったかもしれない。だが神の御使いが彼らに伝えたのは、救い主の誕生という良い知らせであった。さて、この後羊飼いたちはどうしたであろうか。あまりのことに、自分たちの見たこと聞いたことを、まぼろしに違いないと、あえて口に出さずに黙り込んでしまっただろうか。ところが幻覚にしてはあまりにもリアルだったのかもしれない。その後のことを、ルカはこう書いている。「御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。『さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。』」(同15節)

「この出来事を見て来よう」と言って、彼らは出掛けて行ったそうだ。どうやら、彼らは御使いの言ったことの真偽を確かめるためにベツレヘムに行ったわけではないらしい。つまり彼らは御使いのことばを、そのまま疑わずに信じたということだろう。彼らは信ずるところに従って行動したまでだ。善は急げ、である。彼らは生まれたばかりの救い主、イエス・キリストを求めて、ベツレヘムへと向かったのだ。

「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」(同16節)羊飼いたちの期待は裏切られなかった。彼らはベツレヘムでイエス・キリスト、すなわち彼らの救い主に出会うことができたのだ。それだけではない。彼らはキリストに出会った最初の人々となったのだ。

このクリスマス、何かが欲しいにも関わらず、何が欲しいのか分からない、もしくは何を求めるべきか悩むのであれば、羊飼いたちのようにキリストを求めてみるのもよいだろう。そうすれば、期待を裏切られることはないだろうから。