シメオンへの約束

もうすぐ一年が終わろうとしている。ついこの間年が明けたかと思ったら、もう年末である。一年なんて、始まる頃は長そうに思えたのだけれども、終わる頃になると短かったと感じてしまうのだから、人間の感覚なんてずいぶん適当なものである。年の瀬に過ぎし一年を振り返って「長かった」と思っていたのは一体いつ頃までだっただろうか。年を重ねる毎に時間の過ぎていくのが早く感じられるようになっているようだが、昔も今も一年の長さは変わっていない。一年というものに限らずとも、時間というのは不思議なもので、何かが始まるころには先が見通せないこともあってか、長く感じられるものだが、それが終わる頃には、あれよあれよと言う間に過ぎてしまったと感じられるものである。

それはさておき私は今年で四十二になった。年齢のことである。私は一体あと何年ほど生きるのだろうか。仮に八十四だとすると、今がちょうど半分、折り返し地点のようなものである。もっとも人の齢なんてものは、誰にも先を見通すことができないものである。クリスチャンでありながらこんなことを言うのはヘンかもしれないが、私の生命線はとても長い。それが何か確たる根拠になるわけでもないだろうが、八十四を通り越して長生きしそうな気もする。まぁ、こんな脳天気なことを言っているくらいだから百歳まで行ってしまうかもしれない。ともあれ、まだまだ先は長く思われる。

ところで人は自分自身の寿命を知ることはできないが、全知全能の神は人が何歳まで生きるかを知っておられるのだろう。もし神が私に「百歳まで生きる」と言われたら、きっと私は百歳まで生きるだろう。それは神が私に長生きすることを命じたからというわけではなく、百歳まで生きることが既に決まっているからだ。だが神が人にそのようなことを教えることは、そうそうあることではないようだ。短命であることを知ったら、人は自暴自棄になるだろうし、反対に長命であることを知ったら、それはそれで別の意味で人を失望させるかもしれない。自分がどれだけ生きるかを知っていたら、充実に過ごすことができる、そう言う人もいるかもしれないが、果たしてそれほど生産的な人たちが世の中にどれほどいるだろうか。

やや否定的な見方をしてしまったが、しかしすべてがすべてそうとも限らないようである。ルカはある人物について、このように書き残している。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。」(ルカの福音2章25~26節)

ここに登場するシメオンがこのときに何歳であったのかも書かれていない。おそらく老齢だったのではと、勝手な想像をしてしまうのであるが、確かなことは、彼は正しく、信心深い人であり、イスラエルが救われることを願っていたということだ。そのような彼に対して、神が聖霊を通して約束したことは、主のキリスト、すなわち神によって油を注がれた者、神に選ばれた者を見るまでは死なないということだった。いつのことかは分からないにしても、人の死が確かなものであるように、シメオンにとってはキリストを見るということも、いつになるかは分からないが確かなものだった。彼はキリストの訪れを来る日も来る日も待ち望んでいたことだろう。

そしてとうとう神の約束が実現する時が訪れたのだ。「彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。」(同27節)

「すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。』」(同28~32節)

生まれてからまだ日の浅い幼い赤ん坊を見て、その幼子が神のキリストであるとシメオンが知ることができたのは、やはり神の聖霊に導かれてのことだったろう。神の約束を実現させるために、シメオンが自らキリストを探す旅に出掛けたわけではなかった。彼がしたことは、神に期待し、信仰を持ち続け、約束を待ち望んで、ただその場に留まるのみであった。だが、それでも神の約束した通りになったのだ。神御自身がすべてを備えられて、その約束を実現させたのであるから。そしてシメオンは、実現した約束のゆえに、神に栄光を帰すのみであった。

この一年ももうすぐで終わる。果たしてシメオンのように神を信じ、神に期待し過ごしてきただろうか。改めて我が身を振り返ってみようか。