永遠への思い

「あけましておめでとうございます。」

当たり前過ぎているからなのか、それとも聞き慣れていることもあってか、あまり考えたことはないかもしれないけれども、この挨拶、今さらかもしれないが、よくよく考えてみると新年限定なのである。一年の最初のたった数日間だけ使われる挨拶である。そう考えると、珍しく思えても不思議ではないのかもしれないが、この言葉に違和感を覚える人は、たぶんいないだろう。まるで遺伝子レベルで組み込まれているかのように、この数日間の挨拶といえば「あけましておめでとうございます」である。もちろん、そんな科学的な根拠はまるでないのだが。それにしても、なぜだろうか。「おはようございます」とか「こんにちは」とか普段当たり前のように使われている挨拶なのであるが、この数日間に普段の挨拶を聞いてしまうと、それはちょっと違うのではないだろうかという気持ちにさえなってしまうのだから、不思議なものだ。遺伝子ではないにしても、習慣として、常識として私たちの中に刷り込まれているのかもしれない。

ところで私がアメリカにいた頃は、たとえ正月であっても、この「あけましておめでとうございます」というものがなかった。文化も習慣もまったく異なるのだから、当然と言えば当然である。もちろんアメリカではアメリカなりに、”Happy New Year!”と言うこともあったが、これは年が明けた深夜0時のその瞬間くらいであった。その翌々日にクリスマス休暇が明けてから、学校に行って出会った人に”Happy New Year!”と挨拶することはまずなかった。もしうっかりして日本人の感覚で新年の挨拶をしようものなら、何寝ぼけたことを言ってんだくらいに思われてしまうかもしれない。そもそも、正月三が日の概念すらないのだから、しようがない。

それはさておき、「あけましておめでとうございます」という挨拶、その由来については諸説あるようだが、難しいことは抜きにして単純に考えると、新しい年の始まりを迎えることができてめでたい、ということになるだろう。しかし冷静に考えると年が変わったからといって、何かが劇的に変わるというわけではない。要するに気の持ちようということかもしれない。

年が明けて、人はそれぞれ新しく始まった一年のことに、様々な思いを巡らすことだろう。こと私たち日本人は、自然とそのように考えてしまうかもしれない。ところで、聖書にはこのようなことが書かれている。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書3章11節)

先のことを考えるのは、悪いことではない。なぜなら、先を思う気持ちというのは、神が人に与えられたものであり、神が与えたものであれば、それは人にとって良いものであろうからだ。もちろん、先を思うということは、必ずしも良いことばかりではないだろう。何か良い出来事が起こるのはないかと期待することもあれば、その反対に悪いことが起こったらどうしようかと心配をすることもあるだろう。それはそれでしかたのないことであろう。先ほどの聖書の箇所の続きには、このように書かれている。「しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(同)

つまりこういうことであろう。人はこれからのことについて思いを巡らすことはできるけれども、それを確かなものとして知ることができない。神は人に将来のことを思う機会を与えられたが、将来を知ることは与えられなかったのだ。人が先々のことを知ることは、人にとって良いものとはならないと考え、神が望まなかったからであろう。

この新しい一年、私たちはどうなるか、何をしようかと考えることは、神から恵みとして与えられた特権であろう。良く考えるも悪く考えるのは、私たちの自由である。であれば、良い方へと、前向きに思いを巡らせたいものだ。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」またこのようにも書いてある。「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。」(同1節)この一年に起こることが何であるか、私たちには知ることができない。だが確かなことは、それは神のなさることであって、すべてのことには、その時が定められているということである。先のことを知りえないゆえに、私たちは神が最善を為して下さると信じて、期待することができるのだ。