ヨハネ

昔々、私がまだ信仰を持つ前のこと、聖書を読むようになってからまだ日が浅かった時のことだが、四つある福音書のひとつの題名に名前が使われている、キリストの弟子の一人であったヨハネと、ヨルダン川のほとりでラクダの毛皮を身にまとい、いなごと蜂蜜を食べて生活しながら人々に洗礼を与えていたヨハネが同じ人物だと勘違いしていた。さすがに、聖書を読み進めていくことで別人であることに間もなく気付いたが。さて、これは私の勝手なのであるが、どちらかと言えばキリストの弟子の方のヨハネはなんとなく印象が薄いのではないかと思う。改めて、こっちのヨハネは何かしただろうかと考えると、聖書の最後の書である黙示録を書き記したことと……はて、後は何かあっただろうか、という程度である。改めて考えてみれば、福音書にしても、ヨハネの手紙にしても、はっきりと「ヨハネが書きました」とは書かれておらず、伝統的にそう考えられているに過ぎない。しかし書かれていないだけで、当然ながら弟子としてのつとめも果たしていたであろうし、何より黙示録を残した功績は大きい。

おそらく、であるが、もうひとりのヨハネのインパクトが強すぎなだけではないだろうか。ぱっと思いつくだけでも、いくつか目立つところがある。まず、彼は母の胎内にいる頃に、互いの母親を通じてイエスと出会っている。また成人してからは、先に書いたように、妙な格好をして人々に語り、大勢の注目を浴びていた。そして最期も、ひとりの女性の気まぐれから首を刎ねられた挙げ句、その首は盆に載せられて宴席で晒されたという、文字通り「非業の死」を遂げた。いずれもキリストの弟子たちには見られないようなことである。

ところで、強烈な印象のヨハネであるが、ヨルダン川のほとりで人々に「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを」(ルカの福音3章3節)教えていたという。ルカは彼について、このように書いている。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」(同4~8節)

まさしくヨハネは荒野で叫んでいた。彼は集まって来る人々に対してこう言い放ったそうだ。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それならそれで、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(同7~9節)

まむしのすえたち、とはなかなか強烈な呼びかけである。言われた方の立場になって考えてみれば、心穏やかではなかっただろう。また彼の伝えていることも穏やかとはほど遠い、むしろ正反対なものであった。おそらく彼の話を聞いて、腹を立てて去って行く人々もいたことだろう。だが彼が伝えていることの中で重要な点は、集まった人々を「まむしのすえたち」と非難するものでもなければ、神の御怒りが必ずやってくると危険を知らせるものでもなかった。もしそこだけ聞いていたら、人々は怒りに囚われるか、恐怖に飲まれてしまったことだろう。ヨハネが伝えようとしたことは、悔い改めの必要性であった。そして悔い改めないのであれば、その結果として神の御怒りを受けることになるということだった。

どうひいき目に見ても、彼のやり方はスマートには見えない。それどころか、強烈過ぎて見る者聞く者を圧倒してしまいそうであるが、彼の伝えていることは人々のために益となるものであった。彼が伝えることで人々が悔い改めることになり、人々は神の救いを見ることになるからだ。神と人々を近づけること、これがヨハネにとって、主の道を用意するということなのだろう。