まむしのすえたち

「まむしのすえたち」とヨハネに呼びかけられた群衆であったが、おそらく腹を立てて去る人々も少なからずいたことだろう。だが、そのように言われても、まだ彼の話を聞こうと残っている人々がいたというの事実である。これは私の想像でしかないが、ヨハネのところに残った人々は、どちらかと言えば信仰深い人たちでもなければ、さほどまじめな人たちでもなかったのではないか。当時の基準で考えるとしたら、信仰に熱心で、まじめに生きようとしていた人々は、どこの誰とも知れないヨハネなどではなく、名の知られた教師の話を聞くために、会堂に出向いたことだろう。もしそうであるとすれば、ヨハネのところに集まってきたのは、どのような人々であったかを想像することは容易だろう。

ところで、律法や習慣に従い、会堂にもまじめに通い、教師の話を聞いているという人が「まむしのすえ」と呼ばれようものなら、自分はそのように呼ばれるいわれはない、と考えて去ってしまうかもしれない。だがその場に残っていた人々がいたことを考えると、彼らは「まむしのすえ」と呼ばれることに、完全に同意したわけではないにしても、そう呼ばれてもしかたがない、と思うところがあったのかもしれない。おそらくヨハネのところに残っていた人々は、多かれ少なかれ、程度の差こそあれ、後悔や罪悪感、悩みや不安、不満や鬱憤を感じていたのかもしれない。最初は興味本位でヨハネの様子を見に来ただけだったのかもしれないが、何か感じることがあったからこそ、人々は残ったのであろう。

前回も見たとおりだが、ヨハネは集まった群衆にこう言った。「……良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(ルカの福音3章9節)切り倒されて、火に投げ込まれるとは穏やかではない。残って彼の話を聞いていた人々は、自分たちもそのような目に遭うのだろうかと心配になり、また恐れを感じたかもしれない。当然のことだろうが、願うことなら、そのような運命から逃れたいとも考えたに違いない。「群衆はヨハネに尋ねた。『それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。』」(同10節)

彼は人々にこう答えたそうだ。「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」(同11節)それほど難しいことを求めているわけではなかった。たった一つしか持っていないものを、人に分け与えなさいと言ってはいない。あくまでも余分に持っているのであれば、それを持っていない人に与えなさいということである。

また、そこには取税人たちもいたという。彼らはユダヤ人でありながら、ローマのために税金を徴収するという職業ゆえに人々から嫌われていたそうだ。それだけでも十分恨まれるところだが、さらにはその立場を利用して、余分に税金を取り立てて自分の懐に収めていたらしい。それでは、目の敵にされるのも当然である。金銭的には余裕があろうとも、孤独な存在であったろう。ヨハネは彼らにこう言っている。「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」(同13節)ローマのために働くのを辞めろとは言っていない。ただ、自分の懐に収める分を取るなとだけ言っている。これも、さほど難しいことではなさそうだ。

取税人たちがいたことからも分かるように、当時のイスラエルは政治面、軍事面ではローマの支配下にあった。人が集まっていたことから、治安維持と監視のためにおそらくローマ兵が派遣されていたのだろう。傍らで様子を見ていた彼らも、どうやらヨハネの話が気になったらしい。「兵士たちも、彼に尋ねて言った。『私たちはどうすればよいのでしょうか。』ヨハネは言った。『だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。』」(同14節)ローマ人であることをヨハネは指摘しなかった。ただ彼らの職分を超えて行動してはならない、その権威で人々を抑圧してはならないとだけ言っている。

ヨハネの言葉に従うのならば、実を結ばない木として火に投げ込まれて焼かれないようにするには、ほんの少しだけそれまでの生き方を変えるだけでよいということになるだろう。多く持っているのであれば、人に分け与えること、人から余分に取り上げるないこと、力で相手を抑圧しないこと、それだけのことである。もちろん信仰は重要である。だが、ここに出てくる人々は信仰の対象となるべきイエスを知らなかった。いや、イエスがいたとしても、信仰というのは、目に見えないだけあって、わかりにくいものであることに変わりはないだろう。行いが信仰に置き換わることはできないにしても、ちょっとした行動が信仰に結びつくことはあり得ることだろう。そのような行いが実を結ぶことになるのかもしれない。