バプテスマ

寒い日が続いている今日この頃である。大人にとっては幸いなことに、子供にとっては残念なことに、積もり積もるほどの雪はまだ降っていない。多大なる期待を込めて、去年のような大雪にはならないだろう、と私は予想している。巷では寒いと布団から出るのが辛い、と言う人が多いようだが、私はそう感じたことがあまりない。それより何が辛いかと言えば、風呂に入ることである。もとより風呂が好きな人間ではないので、この時期冷え切った風呂場に入る行為は苦役に近いものがある。もっとも衛生面を考慮して、ちゃんと風呂には入っているが。そこでふと思い出したのが、アメリカにいた頃、寒い時期に屋外のプールで行われた洗礼式に立ち会った時のことである。真冬ではなかったにしても、枯れ葉が落ちるような時期に、水にドボンとやられるのは、荒行に近いものが感じられてしまう。洗礼を与える方にしても、受ける方にしてもだ。ちなみに私が洗礼を受けたのは夏休みのことだった。それも屋内でぬるま湯の張られたところである。あぁ、だから私の信仰はぬるま湯のような信仰になってしまったのだろうか……。

さて洗礼(バプテスマ)とは、そもそも何であろうか。もちろん実際に洗礼を受けたことがある信仰者、もしくはこれから受けようと考えている信仰者であれば、それが何を意味しているのか分かっているだろうし、仮に信仰は持っていないとしても、この分野に関する知識のある人であれば知っているかもしれない。ちなみに私が理解している洗礼の意味とは、まず水に突っ込まれるところが、キリストと共に死ぬことを意味し、その後水の中に沈むところが、キリストと共に葬られることを意味し、最後に水の中から引き上げられるところが、キリストと共によみがえることを意味している、というものである。

もっとも、これは教えられたことのひとつとして私が知っているだけであって、もしかしたら違う解釈があるのかもしれない。さらに洗礼の重要なこととは、多くの会衆の見ている前でこれを行うことで、自身の立場を公にすることでもある。と、まぁ、これ私が洗礼を受けたアメリカの教会で、牧師先生から教えられたことの受け売りなのであるが。

さてルカの福音に話しを戻すが、これまで見てきたように、ヨハネはヨルダン川のほとりでバプテスマを人々に与えていたという。もちろん、まだイエス・キリストが十字架につけられてしまう前のことであるから、私の知っているバプテスマの意味と、ヨハネが授けていたバプテスマの意味とは違うであろう。おそらく彼のバプテスマは罪を洗い流すという、つまり清めるという目的であったのだろう。

ところでその頃、キリストはまだ公に活動もしていなかったこともあり、無名であったろう。むしろ、ヨハネの方が人々に知られていたに違いない。それというのも、人々は「救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか」(ルカの福音3章15節)と考えていたくらいである。ヨハネのスタイルや発言に違和感を感じる人々もいただろうが、それでも多くの人々がどれほど彼に期待していたかを、伺い知ることができよう。彼の態度、彼の発言が人々にそのような思いを与えたのかもしれない。

しかし人々の期待とは反対に、ヨハネはこう話したそうだ。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(同16~17節)

これを聞いた人々はどう感じただろうか。期待を裏切られたと残念に思っただろうか。ヨハネよりも力があるという存在を疑っただろうか。それとも、そのようなお方にさらなる期待を抱いただろうか。もしかしたら、火のバプテスマと聞いて恐れを覚えたかもしれない。

それにしても、聖霊と火のバプテスマとは何であろうか。ヨハネの水のバプテスマが、ヨルダン川の水をくぐるということであれば、火のバプテスマとは、実際に火をくぐらねばならないのだろうか。だが、それは無理なことくらい誰でも分かるはずだ。ところで旧約聖書にはこう書かれている。「わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民。』と言い、彼らは『主は私の神。』と言う。」(ゼカリヤ書13章9節)火とは信仰者を焼き尽くすためのものではない。むしろ信仰者を鍛え強くするための火なのだ。そうと分かれば、ヨハネの後から来るお方に期待しよう。