キリストの洗礼

立春過ぎて、暦の上では春を迎えた。とはいえ、まだまだ吹く風は冷たいし、手を洗う水も冷たい。コートやマフラーを手放すにはまだ少し早いようだ。しかし寒い日々が続く中でも、ふと春の訪れを感じることもある。なんだか天気予報のお姉さんの言いそうな言葉になってしまったが……そも、春の訪れとは一体どのようなものなのだろうか。それを言葉で説明するのは難しい。なぜなら「春の訪れ」とは、これこれこのようなものである、という具体的な目安というものがないからだ。結局のところ、いつどのように感じるのかはその人次第なのである。立春頃から感じる人もいれば、まだまだ感じられぬという人もいるだろう。早い遅いはあるだろうが、必ずどこかのタイミングで誰もが感じるはずである。さもなければ、春がこないまま夏になってしまうことだろう。

それはさておき、信仰者にとっては洗礼を受けるというのが、自らの人生における、季節の変わり目というか、ひとつの区切りであると言えよう。では季節の変わり目を感じるように、人は人生の転機を感じることができるのだろうか。やはり人がお互いに違うように、これも人によって感じ方は様々なのだろう。信仰を告白したことで何かが変わったと感じる人もいるだろうし、すぐには感じないという人もいるだろう。ちなみに私は後者であった。が、私のことはどうでもよい。

さて、ルカはその福音書の中で、ある人物が洗礼を受けたときの様子をこのように書き残している。「天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」(ルカの福音3章21~22節)他ならぬイエス・キリスト御自身が洗礼を受けたときのことである。それにしても、ヨハネはイエスのことを自分自身よりも力のあるお方であり、自分には彼の靴紐を解くだけの値打ちさえもないと言ったはずなのに、そのイエスに洗礼を与えることになったとは、おもしろい巡り合わせである。

ところで、人類がこの世界に誕生してから今日に至るまで、洗礼を受けた人々の数はどれほどいるか分からない。また未来の話になってしまうので、まったく見当のつけようがないが、これから洗礼を受ける人々は、はたしてどれだけ出てくるのだろうか。それこそ過去、現在、未来に洗礼を受けた(もしくは、受ける)人々の数を合わせたら、星の数ほどになるかもしれない。しかし後にも先にも、イエスのような体験をした者は他にいないだろう。

旧約聖書の時代には、罪からの清めのための洗礼であり、新約聖書の時代にはキリストに対する信仰告白を目的とした洗礼であるが、キリストにとっての洗礼とはそのいずれでもなかった。彼の受けた洗礼とは、彼の罪を清めるというものでもなければ(そもそも彼には清めるべき罪がない)、彼が信仰を告白するためのものでもなかった。どちらかと言えば、イエス・キリストが何者であるかを神御自身が知らせるために場を設けたと考えられなくもない。神はキリストにこう言っている。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」イエスが神のひとり子であるということを、他ならぬ神御自身が宣言しているのだ。それは人々が言ったことでもなければ、イエスが自分で言ったことでもない。彼のことをヨセフとマリヤの息子として知っていた人々にとっては驚きだったかもしれない。彼が生まれてから三十年、ようやく彼が何者であるかを神が御自身の声で伝えたのである。

ところが、それだけではない。神の霊が鳩のような形をして、イエスの上に降りてきたというではないか。本来であれば霊的な存在であるがゆえに、目に見える形をとることのない聖霊である。それがイエスが洗礼を受けた時には、鳩のような形で現れたのである。聖霊を感じたとか、聖霊に満たされたとか、そのように証しをする信仰者は多くいるだろう。だが、聖霊の姿を見たという人の証しを聞いたことは今まで一度も無い。まず普通に考えたらあり得ないようなことが起こったと考えてもよいだろう。

つまり、イエス・キリストの洗礼とは、父なる神と聖霊なる神が、子なる神の存在を公に認めたということである。そしてヨハネを求めてヨルダン川のほとりに集まった人々に分かるように、彼らの目で見ることができ、また耳で聞くことができるように、このようにされたのかもしれない。こうしてイエス・キリストの立場が確かなものとされ、大工の倅ではなく、神のひとり子としてのキリストの生涯が始まったのである。