パンだけでなく

腹が減ると私は怒りっぽくなってしまう。やたらと周りのことが気になって、ちょっとでも気に入らないことがあるとついイライラしてしまうものだ。ついでに、腹が減ると集中力もなくなってしまうので、何をやっていても身が入らない。とかく腹が減ると良いことがない。まさしく空腹とは、私にとって憎い相手である。ところがその一方で、腹がいっぱいになると私は気が緩んでしまうのか、どちらかといえば周りのことに無関心になってしまう。ついでに、腹が満たされると眠たくなってしまう。それこそ、鶏の味噌だれとハムカツ定食(プラス、刺身の小皿)を食べた後に、ほどよく暖房の効いた部屋で会議が始まったら、永遠とも思える睡魔との戦いになってしまうのだ。まぁ、幸いと言おうか、不思議と会議が終わる頃には睡魔もどこかへと去ってしまうのであるが。腹八分目がちょうど良い、とは言うが、ダイエットがどうのこうのというだけではなく、生産性の面においても、また精神衛生上もその方が好ましいのかもしれない。とは言っても、やはり腹が減っている時に、目の前に食べ物が出されたら、ためらうことはないだろう。(但し、臓物やヌルヌルネバネバしているのは遠慮させて頂こう。)

さて、イエス・キリストが四十日の間悪魔の試みにあわされ、食べ物をとることなく過ごしていたことは先に見たとおりであるが、その後のことがこのように書かれている。「そこで、悪魔はイエスに言った。『あなたが神の子なら、この石に、パンになれと言いつけなさい。』」(ルカの福音4章3節)

それにしても、イエスを陥れようとしたのであれば、なぜこんな回りくどいことを言ったのだろうか。さっさと食べ物を見せて「もしあなたが私を拝むなら、このパンをあなたのものとしましょう」と誘惑した方が直接視覚や嗅覚に訴えることにもなり、効果的だったろうに。もっとも私とは違って、イエスがそのような誘惑に乗ることはまずないだろうが。

では悪魔はイエスが神の子であることを信じていなかったので、イエスが石をパンに変えることなどできないだろうと、端から高を括っていたのだろうか。だが、それも考えにくい。もし悪魔がイエスのことを疑っていたら、わざわざ彼を試みようなどとは思わなかっただろう。彼が神の子であることを知っていたがゆえに、わざわざ四十日も掛けて彼を父なる神から引き離そうとしたのではないか。

もしかしたら悪魔は、イエスに神の力を試させようとしたのではないだろうか。神の子として、神と同じ力を持つイエスにしてみれば、石をパンに変えることなど、文字通り朝飯前であったろう。だが、それは神の力を試すことになるのではないか。そのことについて、神はこう言っている。「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」(申命記6章16節)おそらく悪魔はイエスの空腹が満たされるかどうかを気にしていたわけではないだろう。そんなことよりも、イエスが神の命令に背き、神の力、すなわち御自身の力を試させようと誘惑したのである。

だが悪魔の思惑をイエスは看破していた。イエスはこう答えている。「『人はパンだけで生きるのではない。』と書いてある。」(ルカの福音4章4節)どこに書かれているのかと言えば、旧約聖書の中である。「それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」(申命記8章3節)

イエスは悪魔の誘いには乗らなかった。ばかりか、何が正しいのかを示した。何であるかといえば、「人は主の口から出るすべてのもので生きる」ということである。この地上で生きていくためにも、食事をすることは必要である。神もそれを否定はしていない。だが、人にとって大切なのは、それだけではないということだ。人というのは肉体だけの存在ではないだろう。人には心というものがあり、精神というものがあり、たましいというものがある。それが具体的に体のどこに存在しているかを説明することはできないだろう。だが、見えないからと言ってそれを否定する者はおそらくいないだろう。信仰のあるない以前に、人としての自覚であろう。目に見える体を保つために食事を取るように、神のことばを取ることによって、人は自身の目に見えない部分、心を保つことができるのではないだろうか。