悪魔の誤算

悪魔と聞いて、まず思い浮かべるのは、色が赤黒くて、角が生えていて、尻尾の先が尖っており、鋭利な刃物のような爪をしたその手に三叉の槍を持った、いかにも恐ろしげで邪悪な怪物の姿であろう。絵画などでそのように表現されている場合が多いからだろうか、そんな姿を想像しやすい。ではその一方で、天使と聞いて、人は何を思い浮かべるだろうか。たぶん、真っ白い衣を着て、同じく真っ白い翼が生えており、頭の上には明るく輝く「天使の輪」を乗せていることだろう。いかにも柔和な存在を連想するに違いない。さすがに逆を連想する人はいないに違いない。天使は善い存在であり、悪魔は忌むべき存在として、実にわかりやすく表現されている。まさしくユニバーサルデザインのようなものか。

大勢の人がそのような印象を持っているであろうことを踏まえると、「光の御使い」と聞いた時に、人々はどのような存在を想像するだろうか。その名の示す通り、神々しく光り輝く、それこそ暗闇を明るく照らし、人々を導くかのような、そのようなすばらしい存在を連想するかもしれない。ところが、外見とは時にその内側にあるものを隠し、人を欺くことがあるということを忘れてはなるまい。「サタンさえ光の御使いに変装するのです。」(コリント人への手紙第二11章14節)すなわち悪魔はいわゆる悪魔らしい格好をして人々を怖がらせたりすることはない。だいたい悪魔の目的とは人々を神から引き離すことにあるではないか。それなのに自らが人々に嫌われるような姿形で、人々の前に現れるということはないであろう。だから悪魔は人を欺くために、人々が安心するような姿で現れるのだ。もちろん、文字通り光輝く天使として現れるというわけではないだろうが、つまりは人を油断させるためであれば、手段を選ばぬということかもしれない。

さて、それではイエスを誘惑するためにやってきた悪魔はどのような姿をしていたのだろうか。さすがにそこまで詳しくは書かれていないから、本当のところは分からない。これは私の想像でしかないが、イエスに警戒されない姿でやってきたことだろう。ごく普通の人間の姿形をしていたかもしれない。凶悪な人相ではなかっただろうし、もしかしたら、穏やかな顔をした平凡なユダヤ人の姿で現れたのかもしれない。

そんな人の良さげな風貌をした悪魔であっただろうが、イエスに対する誘惑はまだ続いていた。食べ物で彼のことを惑わすことができなかったので、次はこのように彼を誘った。「悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。』」(ルカの福音4章5~7節)

見た目は平凡なユダヤ人であったかもしれないが、さすがにそこは悪魔である。人間のわざでは到底不可能なことをして、自らの力を見せ付け、さらに世界の国々を好き勝手にするだけの力を与えようと言っている。もちろん、それには条件がひとつだけあり、それは悪魔の前に伏することだった。悪魔にしてみれば、イエスがこの世の権力と栄光を手にするかどうかは、さほど重要ではなかっただろう。なぜなら、キリストを神から引き離すことさえできれば、それだけでよかったのだから。

しかし、イエスは答えて言われた。「『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えなさい。』と書いてある。」(同8節)

イエスの思いは、悪魔とはまったく反対であった。彼にとって最も重要なことは、神のみを礼拝し、神だけに仕えるということであった。悪魔がいかなるもので彼を誘惑しようとも、イエスの焦点がぶれない限りは、すべてが意味のないことであった。そもそも神の子であるキリストには、誰かによって与えられるでもなく、すべての権力と栄光が備わっていたのである。悪魔のイエスに対する誘惑は、すべてが見当違いだったのである。それでは人はどうであろうか。たとえ信仰があっても、うまい話には耳を傾けたくなってしまうだろう。

だが人に信仰があるのであれば、その人は神の家族とされるのである。すなわち、神が所有するすべてのものを、共に所有していることになるのだ。たとえて言えば、私の車は、私の妻や娘たちのものでもあり、彼女たちは必要に応じて行きたいところに行けるという利益を受けることができるのだ。だが私の車を、彼女たちの自由にはさせない。神も同じであろう。神の所有するものが自分の所有物になったと、実感として感じることはあまりないだろうが、すべてを所有しているという事実に違いはない。また、そこから生ずる利益を受けることができるのも確かなことである。悪魔の誤算にだまされて、すべてを失うことのないように気をつけたいものだ。