神を試す

三度目の正直、という言葉があるように、二度まで試みて失敗して、さらに三度目に挑戦するというのは、さほど珍しいことでもあるまい。勉強であっても仕事であっても、はたまた趣味の領域のことであろうとも、何をするにしても目的を達成しようと強く思うのであれば、成功するか、成功までしなくともそれなりに納得のいく結果を得られるまでは、あれやこれやと試行錯誤を繰り返し、やり方を変えたりしながら、努力を続けることだろう。それこそ三度目で結果を得られれば良し。たとえ三度目でなかったとしても、どこかで結果を出すことができれば、めでたしめでたし、である。肝心なことは諦めずに、続けるということであろう。そうかと思えば、引き際も肝心というから、ダメならダメで見切りを付けるというのも必要なのかもしれない。

さて、悪魔もイエスを誘惑すること三度目である。「また、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の頂に立たせて、こう言った。『あなたが神の子なら、ここから飛び降りなさい。《神は、御使いたちに命じてあなたを守らせる。》とも、《あなたの足が石に打ち当たることのないように、彼らの手で、あなたをささえさせる。》とも書いてあるからです。』」(ルカの福音4章9~11節)さすがに今回は「もしあなたが私を拝むなら……」などと露骨なことは言わなかった。さすがにそれでは猛烈に反対されると考えたのかもしれない。それどころか、旧約聖書を持ち出して、イエスを説得しようとしているではないか。実際、悪魔が引用したのはこの箇所のようだ。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。」(詩篇91篇11~12節)

おそらく悪魔も自分自身の言葉では、イエスを陥れることができないと判断したのだろう。とうとう神のことばを用いてイエスを試そうとしたのだが、所詮悪魔の目的が何であるかを知っていたイエスにとっては、効果のほどは皆無であったに違いない。同じようにしてイエスも神のことばを用いて反論した。「『あなたの神である主を試みてはならない。』と言われている。」(ルカの福音4章12節)前にも見た箇所であるが、イエスの引用はこれであろう。「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。」(申命記6章16節)

ところで、神を試みてはならないと言うが、本当に神を試みてはならないのだろうか。信仰者は神への祈りを通して、自らの願いや思いと言ったものを自由に神の御前にさらけ出すことができると言うではないか。神にどのようなことでも求めるなさいと言うではないか。神からの答えが分からない時には、いつまでも神に尋ね続けることができると言うではないか。はたして神は人の祈りを聞いているのか、神は人の問い掛けに答えて下さるのだろか、はからずも人は、そのように神を試みていることにならないのだろうか。

神を試みるべきか、試みずにいるべきか。そこで気になるのが「マサで試みたように」という一文である。一体イスラエルの民は、なぜどうして神を試そうとしたのであろうか。エジプトの地から脱出し荒野を旅しているときのことだが、人々は飲み水がない、飲み水をくれと訴え、挙げ句に「こんなんだったらエジプトに残っていればよかった。」と文句を垂れるという具合だった。「それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、『主は私たちの中におられるのか、おられないのか。』と言って、主を試みたからである。」(出エジプト記17章7節)つまり、本当に神がイスラエルの民と共におられるかと疑ったのであり、本当に神がいるのかと神を試したのだった。

神の存在そのものを疑うのと、神が人の祈りに答えて下さるかどうかを疑うのは、似ているようであっても大きく異なっているのではないだろうか。なぜなら、前者はそもそも神がいるのかいないのかという議論であり、後者は神が存在するという前提で、その神が人の思いを気に掛けているのかどうかという議論になるだろう。

それはさておき、三度試みてもイエスのことを誘惑できなかった悪魔は、ひとまず諦めたようである。それにしても、ずいぶんと簡単に諦めたものである。もっとも、どれほど頑張ってみたところで、イエスの心を変えることはできないことを知ったからには、試みるだけ無駄であると悟ったのかもしれない。しかし神を信じ、イエスを信じ、神の御心を求める目的で神を試すのであれば、その努力を諦めてはならないだろう。神は信じる者に何らかの答えを与えて下さるだろうから。