死んでも生きる

気付いてみれば、今年もまたイースターがやってきた。毎年この時期になるたびに思うのだが、クリスマスは世間一般に広く知られ、受け入れられているのだけれども、イースターは今ひとつ人々に知られていないようである。まぁ、クリスマスは年末に近いこともあるし、長期休暇を目の前にして、何だかんだと人々の気持ちが高ぶっている時期と重なっていることもあって、多くの人たちが楽しみにしているようである。それに比べて、イースターの知名度が低いことは否めない。考えてもみれば、寒い冬が終わり、暖かい春を迎える時でもあり、桜の咲く季節とも重なるし、新年度の始まる時期でもあるので、それなりに人々の思いは盛り上がっているはずなのだが、だからと言って、この季節にイースターを連想する人はあまりいないというのが実際である。

かく言う私自身も、つい最近まで今年のイースターが4月5日であることをすっかり忘れていたのだから、あまり偉そうなことは言えないのだが……あ、そういうことか。クリスマスは毎年12月25日に決まっているから覚えやすいけれども、イースターには決まった日付というものがない。過ぎ越しの祭りの翌々日の日曜日であるとしか決まっていないわけだから、これでは、いつまで経っても人々からは覚えてもらえないだろう。そもそも過ぎ越しの祭りが何であるかを知っている人は、極めて少数派であろうし、なおかつ毎年の過ぎ越しの祭りが何月何日の金曜日であるかを知っている人は、さらに少ないであろう。そう考えてみれば、イースターが知られていないのも、仕方がないのでは、と思えてくる。

いや、本当はそんな単純な理由ではないのかもしれない。考えてもみれば、春分の日や秋分の日も、官報で発表されるまでは、厳密には何月何日というのは決まっていないが、それでもこれらの日を知らない人はいないだろう。もっとも私のように、その日が持つ意味よりも、国民の祝日だからという単純な理由で覚えている人もいるかもしれないが。さて、話が逸れてしまったが、なぜイースターを知る人は少ないのだろうか。それはやはり、その日が持つ意味を知る人が少ないからなのかもしれない。外国のお祭りという程度に知っているだけでは、外国好きな一部の人たちの知るところでしかない。

クリスマスが広く知られている理由は、やはりそれがイエス・キリストの誕生日であるからだろう。たとえ信仰がない人であっても、それを認めるか認めないかは別としても、知識としてそれを否定する人はまずいないであろう。今はどうか知らないが、私が学生の頃は世界史の年表にもちゃんと記載があったほどである。もちろんそれを教えられたことはないが、歴史上の出来事のひとつとしてイエス・キリストが誕生したということは、信仰を持つ前から私はすでに知識として持っていたのである。おそらく多くの人がその頃の私と同じように、クリスマスの背景として、そのような出来事があったということを知っているであろう。そう考えてみると、信仰のあるなしに関わらず、クリスマスが多くの人々に受け入れられているというのは納得のいくところである。

では、イースターはどうであろうか。復活祭という言葉が意味する通り、イエス・キリストの復活を祝う祭りであり、その起源をたどれば、キリストが十字架につけられて、墓に埋葬された後に、復活されたということにある。だが、そのようなことは世界史の教科書に記載がない。キリストの誕生が史実として扱われている一方で、彼の復活については史実として認知されてないということであろうか。そうだとすれば、信じる信じないを別にしたとしても、知識として知る人々が少ないのも仕方がない。

人が誕生するのは自然なことであるから、生まれた者がどんな者であっても、それを疑うことはないだろう。そして人が死ぬというのも、また自然なことである。歴史上の著名な人すべてに生年と没年があるのを疑うことはないだろう。だが、死んだ人間がよみがえるというのは、どう考えても自然なことではない。むしろ自然の摂理に反していると言った方がふさわしいくらいである。それを実地で見たのでもなければ、事実として認められなくても当然であろう。そして、それを見た人はごくわずかであった。キリストの復活を史実として裏付けることができないのも、当然だろう。

おそらくイースターはクリスマスよりも、人の信仰が問われる時であろう。なぜなら信仰がなくともキリストの誕生を信じることはできるが、信仰なしではキリストの復活を信じることができないからだ。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』」(ヨハネの福音11章25~26節)そしてイエスの復活を信じる信仰は、その人自身を生かすことになるのだろう。