神のひと声

最近、私のパソコンの調子が悪い。現にこれを書いている最中に、うんともすんとも言わなくなってしまったことが何度あったことか。部品を取っ替えひっかえしつつ、だましだまし使っていたのであるが、いかんせん6年前に、しかも当時でさえ中古として買ったやつだから、もはや寿命なのかもしれない。そろそろ新しいパソコン(とは言っても、もちろん中古品のことだが)と買い換えたいと思うのだが、残念ながら予算がない。これを書くことで、いくばくかの手間賃を得ているのであれば、それを元手にすることもできるのだが、そんなわけでもない。そんな私の愚痴を知ってから知らずか「天に宝を積む」と、牧師は言うのだ。

そこでふと思った。私が天に積んだ宝は現金に換算するとどれくらいになるのかと。まずこれをひとつ書くのに、おおよそ4時間ほどかかる。しかも平日は仕事があるので、金曜の夜遅く、というよりも土曜の早朝の4時間である。(おかげで、金曜に飲み会に行ってもウーロン茶しか飲めないという制限までついてくる。)さて、厚生労働省の調べによると平成26年度の神奈川県の最低賃金は878円だそうだが、これを書くというのは単純労働ではないから倍額にしても構わないだろう。とすれば、端数を切り捨てても1700円になる。ざっとこれらを計算すると、ひとつ書くのに妥当な賃金は6800円になる。ちなみに労働基準法に従うと午後10時から午前5時までは賃金を最低でも二割五分増しと決められているから、それを加算すると最低でも8500円だ。1年に日曜日は52回あるとして、1年間で44万と2千円になる。それを16年半続けたと考えると、なんと729万3千円ではないか!とは言え、休むこともあるので稼働率を9割と考えれば、656万3千7百円だ……すげぇ。せめて10万でも構わないんで、その積立から引出すことができれば、と思うのである。だが、そんな簡単な話ではないらしい。

世界の始めに、神が「光よ。あれ。」と仰せられると、そのことばの通りに光ができたと創世記には書かれている。なるほど神は何もないところから世界を創造された神である。であれば、「10万よ。あれ。」とひと声掛けてくれないものだろうか。そうすれば、すべて解決しそうなものであるが。だが、それは私の勝手であって、神の望むことではないのかもしれない。

さて、無駄話はこれくらいにして、ルカの記録しているイエス・キリストに目を向けてみよう。前回見たように、イエスは追われるようにして故郷を離れた。「それからイエスは、ガリラヤの町カペナウムに下られた。そして、安息日ごとに、人々を教えられた。」(ルカの福音4章31節)彼を知る人々が多かったがゆえに故郷では受け入れられず、今一度、イエスはガリラヤに戻ってきた。そしてまた、彼は今までそうしてきたように、人々に神の国について教えていたのだろう。「人々は、その教えに驚いた。そのことばに権威があったからである。」(同32節)カペナウムの人々は純粋にイエスの教えに驚いたという。ところで人々が驚くような教えとは何であろうかと、ちょっと気になるのだが、どうやら彼らが驚いたのは、その話の中身と言うよりも、イエスの話し方であったようだ。それというのも、彼らはイエスのことばに権威があると感じたからである。残念ながら、私はイエスが話すのを聞いたことがない。生きている時代が違うから、しかたないことであるが。それにしても、権威を感じられることばとは、果たしてどのようなものだったのだろうか。ところがルカはあまり詳しく書き記してはいない。もしかしたらルカにも、それがどのようなものだったのか、分からなかったかもしれない。だからここではカペナウムの人々がどう感じたのかだけを書いているのだろうか。

それでは、イエスのことばにある権威とは果たして何であろうか。イエスが神のひとり子であることを考えると、神としての威厳が備わっていたのかもしれない。つまりイエスのことばは、神のことばと同じということになる。神のことばの権威がどのようなものであるかは、先程の無駄話でも少し見たが、ひと声で無から有を創り出すことができるほどのものであった。旧約聖書にはこう記されている。「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1章3節)

キリストはガリラヤ地方で人々に教えていたという。その教えがどのようなものであったかをルカは書き残していないので、今を生きる私たちにはそれを想像することはできても、正解を知ることはできない。しかし確かなことがある。すなわち、イエスのことばには世界を創造することができるほどの権威があったということだ。