神の聖者

長崎には思案橋という街があるそうだ。私は行ったことがないから、どのような所なのか分からないが、その名の由来は橋を渡って先にある遊里に遊びに行くか、それとも引き返して家に帰るか、昔の人々が思案したということにあるらしい。人はいつの時代であっても変わらない。人は常に自らの欲求を満たす橋を渡るか、渡らないかと悩むものなのだろう。さてちょっと想像力に頼ることになるが、現金で膨らんだ財布が落ちているのを見つけたとしよう。何も考えなければ、さもそうして当然のことのように近所の交番に届けるに違いない。だが、財布に手を伸ばしたその瞬間、ちょっとした迷いが生じてしまうと、例えば、自分の財布にはちょっとしか入っていないことを思い出したり、周囲に誰もいないことに気付いたり、カード類にさえ手を出さなければばれないんじゃないかとか考えてしまうと、財布の中身に手を出すか、それとも何もせずに交番に届けるべきかと悩んでしまうものであろう。ここで欲望のままに橋を渡って財布の中身に手を出してしまったら、人はちょっと魔が差してしまった、と言い訳をするかもしれない。

しかしながら、魔が差したにしても、邪心を持ったのは他ならぬ自分自身であることに違いない。正しい事は何であり、何をすべきかを分かっていながら、魔が差してしまうということは、人間の中には善と悪の両面が存在しているからだろう。しかし魔が差すと言うと、何やら悪魔に付け入られたかのような気もするが、やはりそうだとしても、隙を見せてしまった人間の側に責任があるのだろう。

さて、悪魔といえば、イエス・キリストを誘惑しようとして、あれやこれやと試みたにも関わらず結局失敗したということを、ルカの福音4章の前半部分ですでに知っている。キリストを誘惑することが出来なかったのであれば、その他の人々を誘惑しようと虎視眈々と私たちのことを狙っているのかもしれない。たとえ信仰があったとして、それに変わりはないであろう。説明されずとも、日々生活をしていれば、自分が試されていることくらいは感じているだろう。

ところが、悪魔のなすわざは人を誘惑するだけではない。ルカはこのように記録している。「また、会堂に、汚れた悪霊につかれた人がいて、大声でわめいた。」(ルカの福音4章33節)悪い霊が人に取憑くというのは、あまり聞いたことがない。と言うか、聖書に書かれている出来事としてしか読んだことがないというのが実際である。それが具体的にどのような状態なのか、ルカが書いている以上のことは分からない。ルカによれば、その人は会堂で大声で叫び騒いでいたという。会堂とは、聖書のことばを読んだり、学んだり、祈りを捧げたりするための場所であった。つまり、悪霊はこの人に取憑くことによって、人々が神のみことばに触れることを妨げようとし、また人々が神に祈ることを邪魔しようとしていたのではないか。人々を誘惑するだけではなく、より直接的に人々を神から遠ざけようと試みたと考えることもできよう。

ルカによれば、まさしくその現場に、イエス・キリストがやってきたのだ。彼を見るや、悪霊はその人の口を通して言った。「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」(同34節)人々はまだイエスが何者であるか、おそらく分かっていなかっただろうから、今まで彼らが見てきたどのような教師よりも優れた人物としてイエスのことを見ていたであろう。だが、汚れた霊はイエスが単なる教師ではなく、他ならぬ神の聖者であることを知っていたのである。そして、イエスには悪霊を滅ぼすだけの権威があることも分かっていたのだ。

「イエスは彼をしかって、『黙れ。その人から出て行け。』と言われた。するとその悪霊は人々の真中で、その人を投げ倒して出て行ったが、その人は別に何の害も受けなかった。人々はみな驚いて、互いに話し合った。『今のおことばはどうだ。権威と力とでお命じになったので、汚れた霊でも出て行ったのだ。』」(同35~36節)イエスに命じられ、悪霊は抵抗するわけでもなく、またその人を傷つけるわけでもなく、黙って去ったのだ。なぜなら悪霊は彼が何者であるかを知っていたからであり、逆らうことができなかったからである。人々はその様子を見て、彼の権威と力がこの世界のものではないことを、ようやく悟ったのかもしれない。

考えてもみれば、それほどの権威を持ったお方が私たちの救い主となられたのである。常に私たちの心をイエス・キリストに委ねるのであれば、悪魔が付け入る隙もなくなるに違いない。だが、悪魔よりもタチが悪いのは、欲しいものは何としても手に入れたいと考える、自分自身の欲望であり欲求なのかもしれない。人が罪人たる所以であろう。