熱を叱る

テレビのニュースで先日放送されていたことだが、コーヒーを飲まない人よりも、コーヒーを飲む人の方が病気になりにくいとの統計結果が出たそうだ。病気になりにくいと言っても、その違いは1%にも満たないので、まぁ、考えようによっては誤差程度の違いでしかない。どうやらコーヒーに含まれているカフェインが影響しているのかも、と一部の研究者たちは考えているらしい。しかしカフェインが影響するのであれば、同じくカフェインを含んでいる紅茶や緑茶でも同じ結果になるのかもしれない。さて、これは専門家ではない私の素人としての考えでしかないが、カフェインうんぬんだけではなく、もしかしたらコーヒーを飲む人のライフスタイルが結果に影響を与えているのかもしれない。例えば、仕事の合間にコーヒーを飲むくらいの余裕があるなら、ストレスを感じても適度に発散しつつ日々過ごすことができているのではないか、というようにだ。

さて、病は気からと言うが、気分でその人の健康状態が左右されるというのは、あながち間違いでもないのだろう。実際、何の影響も効果もない粉砂糖を薬と思い込んで服用することで、症状が改善することをプラシーボ効果と呼ぶこともある。医者に診てもらったとか、薬を飲んだとか、具体的な行動を伴う無意識の自己暗示のようなものだろうか、もしかしたら実際の薬効よりも、そのような精神状態が人の回復を早めたりするのかもしれない。加えて信仰を持つ人たちは、神仏に対して病からの回復を祈念するものである。クリスチャンに限らずとも、洋の東西を問わず、いつの時代も行われていたものであろう。これもある種の自己暗示、もしくは他者暗示のようなものであろう。

もしすべての病気や怪我が、そのような「気の持ちよう」で治るのであれば、たくさんの医師や看護師や薬剤師が職にあぶれてしまうだろう。それこそ患者が信じるように仕向けるだけでよいのであれば、医術ではなく、むしろ話術が巧みな人が医者になってしまうだろう。だが、よくも悪くも、実際にはそんな気合いで治るものばかりではない。たんすの角に勢いよく足の小指をぶつけたら、痛くないと思い込ませようとやっきになっても、痛みが治まるわけでもない。空き缶のフタで指を切って血が噴き出せば、大丈夫と思っただけで血が止まるものでもない。

ところで、ルカの福音書の著者であるルカという人物であるが、本業は医者であったという。そのような立場から物事を考えるとしたら、精神力や気合いや暗示だけでは治すことのできないもの、裏を返せば具体的な治療や対処が必要なものがあることを十分に知っていたに違いない。そのようなルカであったが、ある出来事を書き残している。「イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家にはいられた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。」(ルカの福音4章38~39節)

もしかしたら自らの経験から分かる人もいるかもしれないが、たとえ風邪をひいたとしても、熱さえ無ければそれこそ気合いでなんとかなるだろうと気楽に考えてしまうものだが、いざ熱を出してしまうと、それこそ今までの気持ちは何だったのかと思われるほどに弱気になり、いかにも病人らしくなってしまうのだ。こうなったらどうしようもない。気合いではなく解熱剤なり何なりの対処が必要になるのだ。

では、老いた女性がそのように高熱で苦しんでいるのを見たイエスはどうしたか。処方箋を出しただろうか、それとも冷えピタでも渡しただろうか。それは凡人である私が考えそうなことである。いや、私が熱を出したらそうしてもらいたいと考えるものだろう。だが、イエスは、熱を叱りつけたのだ。熱を叱りつけるとは、普通なら思い付くことではないし、そもそもそのような発想すらないだろう。医者であるルカにとってはなおのこと、全く予想外のことであったはずだ。だが、ルカはこのことを何の疑いを持つこともなく書き記しているのだ。彼自身が目撃したのならまだしも、人から聞いた話であったにも関わらずだ。つまり、ルカはイエスがそうされても何ら不思議なことではないと分かっていたのだろう。

人々には、この女性が回復するのは奇跡に見えたかもしれない。しかし、神の子であるイエスには、そうするだけの権威があったのだ。彼がそうと望めば、病を消し去るのは容易なことであった。そして何より、彼はそうすることを望んだのではないか。「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。」(同40節)