誰に、何を

貧乏性なのか、それともケチなのか、喫茶店の五十円引きクーポンを財布の中に見つけてしまうと、どうしても使わないともったいないような気がして、つい使ってしまうことがある。そして後になってから気付くのだ、コンビニでコーヒーを買った方が実は安かったということに。クーポンを使った時は得をしたと勝ち誇った気持ちになるのだが、実際には期待したほど得をしたわけではない、というか、むしろ実際には損をしているのだと、後になってから気付くのである。期待し過ぎたがゆえに、落胆も大きい。

ところで、イエスが熱病に苦しんでいる老いた女性を癒やされたという話を前に読んだが、彼女には義理の息子がいた。ルカがこの女性のことを「シモンのしゅうとめ」(ルカの福音4章38節)と書いていることから知れよう。そしてこのことからも分かるように、義理の息子の名はシモンであった。前に見たように、老女が病気に苦しんでいるのを見て、イエス・キリストに助けを求めたのは、その場にいた人々であった。もしかしたら彼女の友人や知人もいたかもしれないが、娘婿に限ってはそこにいなかったようである。おそらくシモンは後から、何がどうなったのかを聞いたのかもしれない。もっとも、聖書に書かれていないから、私の勝手な憶測でしかないが。

もしそうだとしたら、シモンは義母の話を聞いてどう感じたであろうか。彼女の病が癒やされたことを感謝したかもしれないし、もしかしたら何かお礼をしなければと考えたかもしれない。さもなければ、話に聞いたような不思議なわざを行ったイエス・キリストという人物に興味をもち、是非とも一度会ってみたいと願ったかもしれない。だが、これらのことは、あくまでもシモンがいわゆる善良な人間であると考えた場合である。反対に、もし彼が疑い深く、素直でない人間だとしたらどうだろうか。おそらく彼は自分の目で実際に見て、自分の耳で実際に聞いて、自らが体験しない限りは、そのような不思議なわざというものを信じないであろうし、ましてやそのようなことを行うイエスという人物のことを、まやかしものに過ぎないと端から疑って掛かったかもしれない。シモンがどのように考えたか、本当のところは分からない。だが一般論として言えば、人は自らの理解を超えた出来事に対して疑いをもつものであろう。であれば、このシモンにしても、しゅうとめの話を老人のたわ言として、本気にしていなかったかもしれない。

さて、その話を聞いてから、さほど日が経っていないであろうある日のこと、漁師を生業とするシモンは湖の畔で網の手入れをしていた。そこへやってきたのが、イエス・キリストである。おそらく自己紹介はなかったであろう。しかし、集う群衆の様子から、やってきたのが誰であるかを察したに違いない。「イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。話が終わると、シモンに、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。』と言われた。」(同5章3~4節)

シモン(またの名をペテロ)はどのような思いで網を投げただろうか。彼はイエスにこう答えている。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」(同5節)

果たして彼はイエスを信じて、何か不思議なことが起こることを期待していただろうか。イエスに逆らっていないところを見ると、そう読み取ることもできよう。だが、もしかしたら、彼はイエスのことを、しゅうとめの病を癒やした人であり、人々が慕う先生として見ていただけかもしれない。であれば、彼の行為はどちらかといえば儀礼的なものだったのかもしれない。恩義を感じていただけかもしれないし、群衆の前でイエスの顔を立てなければ、という程度に考えていたかもしれない。ましてや、何かが起こることを期待していたわけでもなかったかもしれない。ところが、どうだろうか。網が破れてしまいそうなほどの大漁ではないか。彼の驚きは常ではなかったろう。彼はイエスのもとにひれ伏して、こう告白せざるを得なかった。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(同8節)

時に思う。信仰を持つことは損なことではないし、神に期待するのは誤りでもない。もとより神はそれを人間に求めているではないか。しかし、信仰が習慣になってしまい、神が与えてくださると期待することに慣れてしまうと、さも、与えられて当然と無感動になってしまうのでは。ならば、神に期待するのを少しは慎んだ方がよいのだろうか……。いや、神に遠慮はいらないだろう。神が何を与えて下さるか、と考えるときに、「何を」という目的語ではなく「神が」という主語に目を向けていれば、神のなさることは常に新鮮に感じられるかもしれない。