人のおもい、神のおもい

聖書にはこんなことが書いてある。「まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。」(マタイの福音17章20節)こう言ったのはイエス・キリストである。ちなみにからし種の大きさは1~2ミリくらいだ。ソーセージにつけて食べるとおいしい粒マスタードの、あのぷちぷちしたのがまさしくからし種である。ゴマや芥子よりはちょっとだけ大きいかもしれないが、それでも小さい。つまりそれくらいわずかな信仰があれば、山を動かすほどの大きなことを成し遂げることができる、ということのたとえであろう。裏を返せば、アボガドの種のように、大きくて硬くて重たい信仰である必要はないということかもしれない。

さて、便宜上分類するのであれば私はクリスチャンということになるが、私はあまり信仰に対して熱心ではない。それどころ、どちらか言えば信仰というものに対して疑り深い方かもしれない。おまけにこの世の罪と欲に、首まで浸かっている有様だ。私よりも恵まれている人を見れば、羨ましく思ってしまうものだ。私の気に入らないことをする人がいれば、その人に腹を立てることもある。道を歩いていれば、すれ違う女性に目を奪われることもある。(あ、心は奪われてないです、はい。)旧約聖書には神の戒めとして、このように書かれている。「殺してはならない。 姦淫してはならない。 盗んではならない。……あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」(出エジプト記20章13~17節)あれまぁ、どれもこれも守れちゃいないじゃないですか。

本当ならば、日々悔い改めて過ごさなければいけないのかもしれないが、申し訳ないが、そうするわけでもない。むしろ、仕方ないではないかと開き直って過ごしているようなものである。とは言え、こんな私でも信仰者の端くれである。神の存在を疑ったことはないし、イエス・キリストの赦しを疑ったこともない。であれば、こんな私でも、もしかしたら、からし種くらいの信仰心ならあるかもしれない。ひょっとしたら、私の祈りで山を動かせるかもしれない。

だが実際は、山を動かすことなどできない。残念ながら宝くじを当てることさえもできない。一通り私が得たいと願うものを、神は与えてくれない。やはり私にはからし種ほどの信仰もないだろうか。それとも神にはそのようなものを与える力がないのだろうか。私が望むものは、そもそも神にとっても実現することができないのだろうか。しかし、神は全知全能なるお方ではなかったか。この世界と、その中にあるすべてのものを創造された神にとって、不可能なものなどないはずだ。

しかしながら、考えてもみれば、私が求めているものや望んでいることは、私にとって利益となるものでしかない。果たして、そのようなものを求めることが、信仰の正しいあり方なのかどうかは、考えるまでもないだろう。神は私の都合で存在しているのではない。「わたしはある」(出エジプト記3章14節)と言われた神は、神ご自身の意志で存在しているのだ。

それでは自分勝手なことでなければ、神に求めれば与えられるのであろうか。ルカはこのような出来事を記録している。「さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」(ルカの福音5章12~13節)

見方によってはこの人物が願ったことは、わがままなことに思えるかもしれない。彼が癒やされることで、利するのは彼自身であるからだ。しかし、彼の願いは必ずしも自己中心的なものではなかったようでもある。彼の言葉からも分かるように、彼が癒やされるのは、自らの願いによってではなく、キリストの意志によることに気付いていたからだ。結果、どうであろうか。イエスの思いによって、彼は癒やされたのだ。

祈りというと、こちらの願いを神に伝えるものと考えてしまいやすい。もちろん、それも間違っているわけではないし、そのような一面もあろう。しかし、それだけではないだろう。祈るということは、神の意志をはかることでもあり、ひいては自らの思いと神の思いが揃っているかを見出すことにもなるのではないだろうか。