やりたいことをやる

そういえば、私が電子書籍を出版してから、もう一年とちょっとが経ってしまった。しかしながら、まったく売れていない。一年掛けて売れたのが、たったの15冊。一冊売れれば、私に入る印税は30円。仮に10冊売れて、ようやく三百円の利益になる。では、それが私の手元に入るのかという、実はそういうわけでもない。一冊売れたら一冊分の印税が振り込まれるかと思いきや、ある程度まとまった額の収入がないと私の口座には振り込まれないのである。その最低金額が五千円。つまり167冊売れないと私が得るものは何もないのである。まぁ、考えてもみればそれも仕方ないことだ。世界のアマゾンといえども、わざわざ30円を支払うために倍以上もする手数料を払うようなことはしないだろう。厳しいがこれが現実である。電子書籍を出すのは思いの外、簡単なことである。しかし、利益を上げるのというのは、まったく別の話である。

それにしても、売れる本にはそれなりの理由があるのだろうが、中にはなんでこんな本が売れるのだろうか、と不思議に思えるような本もあったりする。とは言っても、価値観というのは人それぞれだから、私が気に入らないからといって、誰もがそう感じているわけでもないだろう。逆の見方をすれば、私が納得したからといって、それが人々の興味をひくということにはならないのだ。冷静になって考えればどこの誰かも分からないような一人の人間が、どうやって信仰を持つに至ったかなんて、興味をそそる要素なんて何一つとしてない。暇つぶしにすらならないかもしれない。

ところで、人には出来ることと、やりたいことがある。大して面白くもないし、ためになるわけでもなくて申し訳ないが、こうしてこれを書くことが私の出来ることである。出来ることをやっていれば、さほど不自由を感じることないだろうし、自らに備わった能力の範囲内でどんなことでもできるだろう。もちろん出来ることをやることに問題はない。むしろ、それらを生かして世の中のために役立てるなり、利益を生み出すなりして人は生きていくものであろうから、有償の仕事であれ無償の奉仕であれ、自らに出来ることをするというのが、人としての責任であり義務なのかもしれない。

とは言え、出来ることだけしていればいいのだろうかとも考えてしまう。何か出来るということは、特別に努力や余計な苦労をせずに、ひとつのことを成し遂げられるということだ。つまり自身の能力の範囲内だけで行動していると、人は向上心が薄れてしまうのではないだろうか。自分に出来るのはここまでと、妥協ばかりしていては、人はいつまで経っても今以上のことを達成したり、生み出したりすることはできないだろう。

さて長々と無駄話をしてしまったが、ルカの福音に話を戻そう。ある日のこと、病気で寝たきりになっている友人を助けようと仲間が集まったそうだ。彼らには、その友人の病を癒やすことはできないので、彼らに出来ること、すなわち彼をイエスのところに連れて行くことにした。だが、同じようにイエスに助けを求めて大勢の人々が集まっていたこともあって、寝たきりの人間を運んでイエスのところにたどり着くことは不可能に近いことだった。これが彼らに出来ることの限界だった。もし彼らが出来る限りを尽くしたと考え、ここで妥協をしていたら、次に書かれていたようなことは起こらなかっただろう。この人は癒されることもなかったし、そもそも一連の出来事は聖書の中に書き留められることもなかったに違いない。

彼らが目指したこと、彼らが成し遂げたかったことは明らかであった。それは、友人が再び健康を取り戻すことだった。何をしたいのかが分かっていたから、彼らは出来ること以上のことをしたのだ。彼らはどうしたらよいかと考え、そして工夫した。彼らの導き出した結論は、常識の枠をはみ出していたし、どちらかと言えばかなり荒っぽいやり方でもあった。「しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした。」(ルカの福音5章19節)

その結果はこう書かれている。「すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。」(同25節)

まずは自らのやりたいことを明確にせねばなるまい。もちろんやりたいことなら、何でもよいというわけでもない。「彼らの信仰を見て」(同20節)とあるように、目指すものが最低限信仰に基づくことは必要であろう。さもないと、ただのわがままになってしまう。ひとりの信仰者として、何を達成したいのか。それは人それぞれであろうから一概には言えないが、出来ることだけをやっていては、それにたどり着くことはできないのかもしれない。