罪人を招く

隣は何をする人ぞ、とはよく言うものである。これは私の場合であるが、混んでいる電車に乗っていると、隣に立っている人がスマホで何をやっているのかと、つい見てしまうことがある。言い訳ではないが、意図的に盗み見ているわけではない。ただ何をしているのかなぁと興味があるだけだ。たいていの人はゲームで遊ぶか、ツイッターやらLINEやらをやっているか、ブログやニュースや漫画を読んでいるか、いずれもありふれた光景なのでこれといって珍しく思うことはない。ところが先日買い物をしている人を見かけた。スマホで買い物なんて、そんな気軽に物を買うなんて私にはまねができないよ、と思いつつ何を買っているのか観察していたら、一人は2万円強のテニスシューズ、もう一人は十数万円のグアム旅行であった。ふぇー、お金が余ってるんだなぁと思ったのだが、よく考えてみれば世の中では夏のボーナスが出た時期なのを思い出した。

新聞の記事によると、おおよその金額であるが、大手企業のボーナス支給額は平均で90万円、国家公務員は60万円、だとか。人の財布を覗いても無意味なことは分かっているのだが、なんともうらやましい限りである。お金はお金の好きな人のところに集まると、何かで見たことがあるが、はたしてそんなものなのだろうか。私だってお金が好きであるが、それでもお金に対する愛情というか、情熱が足りていないのか、お金が集まってくるような気配は皆無だ。それこそお金を愛してやまぬというくらいに、お金を得るためなら、あれやこれやと苦心するくらいの想いがないとだめなのだろうか。とは言え、裕福な人すべてが金の亡者でもないから、やはり、そういうわけでもないのだろう。

しかし、いつの時代でも私腹を肥やすためなら、人の道をはずれたことをすることをためらわない人々がいたというのも事実であろう。それはイエスの時代でも同じだ。たとえば、取税人たち。彼らは被支配層のユダヤの民でありながら、支配者であるローマ帝国のために、同胞から税金を集めていたのである。単に税金を集めるだけなら、世の中の仕組みとして仕方がないことかもしれないが、彼らはその立場を利用して、集めた税金からいくばくかを自分らの懐にしまい込んでいたのである。敵であるべきローマのために働いている事実と、盗みを犯している疑いで、彼らは人々から相当に嫌われていたらしい。

ところで、ルカの福音にはこのような出来事が記録されている。「イエスは出て行き、収税所にすわっているレビという取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい。』と言われた。するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。そこでレビは、自分の家でイエスのために大ぶるまいをしたが、取税人たちや、ほかに大ぜいの人たちが食卓に着いていた。」(ルカの福音5章27~29節)

今の時代に生きる私たちの目から見れば、特に何かというわけでもないだろうが、当時のイスラエルの人々の立場から考えると、これは彼らの常識では考えられないようなことであったかもしれない。人々の味方とも言えるイエス・キリストが、人々の敵と呼ばれてもなんらおかしくないような者と親しくなろうとしていることを意外に思ったであろう。もし彼が本当にキリストであれば、ローマの支配から人々を解放することを期待されているはずなのに、なぜローマの手先となって働く者たちと関係を持とうとするのかと、疑問を抱いたかもしれない。もしかしたら、イエスに対する憤りを感じた者もいたであろう。そして彼を非難する人々がいたのも事実である。「すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。『なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。』」(同30節)

「そこで、イエスは答えて言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。』」(同31~32節)

これがイエスの理由であった。神の子は正しい人々のために、この世に来られたのではない。悔い改めと、それに対する赦しが必要な人々の人々のために来られたのである。正しくいられるのであれば、それが最善である。だが常に正しい人はいない。むしろ失敗を繰り返すのが人というものであろう。そのような不完全な人間のために、キリストはこの世界に来られたのである。

富を求めて得られる人は少ない。しかし、キリストを求めて何も得られない人は、おそらくいないだろう。不確かなものを追い求めるよりは、確かなものを期待した方が、人は心穏やかに過ごせるのかもしれない。