断食する、しない

しばらく前のことだが、妻が腹の具合が悪い、食欲がない、と言っていた。そうか、それではお大事にしてください、と早めに休むように言って、彼女もそれに従ったわけだが、翌日になっても体調が回復しないのか、朝食の時間になっても何も食べずにじっと食卓に座ったままだった。まぁ、食欲がないのであれば仕方あるまいと、そのままにしておいたのだが、さすがに何も食べずにいるのは可哀想だと思い、その夜は軽く食べることができそうなものを買って帰ることにしたのだ。さて、それが何であったのか、今では思い出せないのであるが……それはさておき、妻が喜ぶかと思いきや、そうでもなかった。やはり何も口にしようとしないのである。では、まだ具合が悪いのかと聞いたら、もう治ったと言う。それではと、買ってきた物を勧めてみたら、何も食べられないと言って、なぜか妻は怒り出してしまった。こっちは心配しているのに、なぜ怒られないといけないのか、まったく腑に落ちない。妻の言い分を聞くと、なぜ断食中の自分に食べ物を勧めるのか、ということらしかった。はぁ、断食中、だと?だったら、先にそうと言ってくれないと分からないじゃないか。

まぁ、腹が減ってりゃ、怒りっぽくなる気持ちは分からぬでもない。私だって、腹が減っていればイライラするもんだ。今更言うまでも無いが、私は食べることが好きである。もちろん、好きだと言っても、それに命を掛けるほどではない。むしろ命を永らえるために食べているようなものである。命あっての物種とは言うが、生きているからこそ食事ができるのであろう。感謝するしかない。食べるために生きているのか、生きていくために食べるのか、まぁ、そんなことを考え出したらきりがない。とにもかくにも、私のような人間には、断食などは無理だろう。

さて、イエス・キリストの時代にも、人々が断食をすることはあった。イエスが取税人などの、いわゆる罪人たちと食事をしている様子を見て、律法学者や宗教家はイエスにこう言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」(ルカの福音5章33節)

イエスは彼らに、このように答えて言った。「花婿がいっしょにいるのに、花婿につき添う友だちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」(同34~35節)

律法学者たちは暗にイエスとイエスの弟子たちを非難しているのだろう。自分たちが正しいと信じている彼らにとっては、イエスが間違っていると言いたいに違いない。しかし直接的に言ってしまうと、イエスに従う人々を刺激することになり、余計な反感を買ってしまうことを恐れたのだろうか、遠回しに言おうとした。そこで彼らが引き合いに出したのは、ヨハネの弟子たちであった。前にも見た通り、ヨハネはイエスのために道を備えるために、ヨルダン川のほとりで人々を教えていたし、またイエスご自身に洗礼を授けたのもヨハネであった。神がヨハネを遣わしたことを考えると、そのようなヨハネに従っていた者たちは、おそらくイエスにも同情的であったろうし、またイエスや弟子たちも彼らの考え方には理解を持っていたであろう。旧来の習慣や伝統にとらわれずに、純粋に神を求めていたという点においては、彼らの信仰の在り方は相通じるものがあったに違いない。そのようなヨハネの弟子たちがやっていると言って、律法学者たちはイエスと弟子たちの過ちを突こうとしているのである。

断食をして、祈る。これは当時も今も信仰の表現として、変わるものではない。妻が断食をしたのも、おそらくそのような理由からであろう。ヨハネの弟子たちが断食したのも、やはり同じ理由であろう。彼らを非難しているパリサイ人たちの弟子にしても、彼らなりに正しいと信じて、断食をしていたのだろう。だが、イエスや彼の弟子たちは断食をしていなかった。

しかし、イエスは律法学者たちの言っていることを否定をしているわけではない。イエスにしてみれば、今は「花婿がいっしょにいる」という祝福の時であり、「花婿につき添う友だち」はその祝福を共有することができるからだ。断食することも、祈ることも、必ずしも今すべきことではないと言わんとしているのだろう。なぜなら、神の子であるイエス・キリストが悔い改めと赦しを伝えていることは、多くの人々にとって恵みとなるからである。祝福を受ける時には、それを喜ぶことも信仰の表し方のひとつなのだろう。