新しいもの

何というか、ふと周りの人たちに申し訳ないなぁ、と思うことがある。それというのも、こうやって書いているうちに書くネタに困ってしまうと、つい周りの人のことを書いてしまうことがあるからだ。当然ながら、悪意があってのことではない。なんと言っても、私の学生時代からの友人でもあり、教会の牧師でもある人のことを「髪を伸ばしたヘンなヤツ」とまで書いたことがあるくらいだ。いや、もちろん彼が若い頃の話であり、私もまだ信仰を持つ前の頃だった。ちなみに言っておくが、当時は私も髪を伸ばしていたので、同様にヘンなヤツに見えたことだろう。それどころか、アメリカに留学中ということもあって、日本人と会話するときも英語でしか話さなかったというから、端から見ていれば、私の方が彼以上に相当にヘンな存在だったのかもしれない。ところで、人のことを書くにしても、自分のことを書くにしても、それが過去のこととなれば、百パーセント事実そのまま書けるというわけでもない。どうしても記憶の空白ができてしまい、若干の脚色で話しを補ってしまうこともあるので、そこはご勘弁を。

ところで、過去のことを完全に思い出すことが出来ないのは、私の記憶力が悪いのか、それとも齢を重ねるごとに不要と思われるものが消えていくのか……いずれにせよ結果は同じである。そう言えば、記憶だけでなく、年齢とともに人の味覚というか、味の好みも変わってくるのだろうか。例えば、朝はパンではなくメシを食わなければ、食った気がしないとか。若い頃は、コーヒーの苦いのが苦手だった私だが、今では甘ったるいコーヒーなど飲みたいとは思わない。さて、どうしてだろうか。長く生きれば、世の中が甘くないことを知り、人の世の苦さを感じる回数が増えるからであろうか。苦味に親しみを感じるようになってしまったのだろうか。ともあれ、苦いものは苦いものとして味わいたいのである。それを甘いものと混ぜてしまっては、私が求める苦味が薄まってしまうし、かつて親しんだ甘みも失せてしまうだろう。

どうやら混ぜ合わせてはならないものは、他にもあるようだ。イエス・キリストはこのようなたとえを言っている。「だれも、新しい着物から布切れを引き裂いて、古い着物に継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、その新しい着物を裂くことになるし、また新しいのを引き裂いた継ぎ切れも、古い物には合わないのです。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。」(ルカの福音5章36~38節)

ちょうどイエスと弟子たちが、なぜ断食をしていないのかと律法学者たちに非難された時のことだった。はたしてイエスは、このたとえを通じて、何を伝えたかったのだろうか。

ご存じのように、新しい布というのは、洗うと縮んでしまうものである。ちょうどサイズがぴったりだと思って買った服が、洗濯をしたらきつくなって着られなくなってしまったということは、もしかしたら経験があるかもしれない。つまり、古い服に新しい布で継ぎをしようものなら、洗った時に新しい布が縮んで古い生地を引っ張ってしまい、服が裂けてしまうことになるからだ。古いものに新しいものを足そうとすると、結果として古いものがダメになってしまう。

また使い古された皮袋は、限界まで皮が伸びきっているという。そこに新しいぶどう酒を入れてしまうと、ぶどう酒が発酵する過程で生じる炭酸ガスの圧力に絶えきれずに、袋がやぶけてしまうのだ。これでは、せっかくのぶどう酒も地面に最後の一滴まで飲まれてしまうし、長いこと大事に使っていた皮袋も使い物にならなくなってしまうで、何も良いことがない。古いものには古いものとしての役割があり、古いものに新しいものを入れてしまうと、古いものはそれを収めておくことができないのである。

イエスは古い着物を捨てろと言っているのではないし、古い皮袋は役に立たないと言っているわけでもない。それらのものは、新しいものとは一緒にすることができないと言っているのだ。イエスがここで言っている古いものとは、おそらく律法学者たちが大事にしている旧来からの伝統や慣習なのだろう。そして新しいものとは、「罪人を招いて、悔い改めさせる」(同32節)という神の国の良き知らせなのだろう。

イエスの福音は、それまでの伝統を補うものではなく、それまでのやり方に納まるようなものでもない、ということなのだろうか。つまりイエスが教えていることは、まったく別のもの、今までにない新しいものである、ということなのかもしれない。その新しい教えを受けるのは、律法学者や宗教家たちではなく、いわゆる罪人とみなされた人々になるのだろう。