安息日

安息日……なんと甘美な響きであろうか。月曜から金曜まで混んだ電車に揺られて仕事に行って、何も問題が起きていないかと心配しながら過ごして、すっかり疲れ切った心と体を「安息」させることができる貴重な日ではないか。なんと貴重な一日であろうか。そんな日は、誰からも邪魔されずに心ゆくまで眠り、目が覚めたら覚めたで、好きな本を読むなり、映画を見るなりして気分転換をして、うまいものを飲み食いして、誰に気兼ねするでもなく一日過ごす。それが安息日というもので……というのは、ちょっと違うらしい。安息日の起源については、聖書にこのように書いてある。「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。」(出エジプト記20章8~10節)いや、あながち間違っていないではないか。六日間(正確には週休二日制なので五日間だけだが)仕事をして、七日目は仕事をしてはいけない、聖書にもそう書いてあるではないか。

しかし、働いてはいけないイコールだらけて過ごしても構わない、というわけではなさそうだ。続く箇所にはこのように書かれている。「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(同11節)これらの箇所で、安息日は聖なるものであると、二度も書かれている。つまり、信仰者の立場から言えば、安息日とは神の目的のために、他の日とは特別に分けられた日ということになる。多くの教会が日曜日に礼拝を行っている理由がここにある。

そうは言っても、まじめな信仰者としてではなく一人の人間として言えば、週に一度、せめて日曜の午前くらいはゆっくりと過ごしたいと思う。だが、実際には他に外すことができない予定がある場合を除いて、ほぼ欠かさずと言っても構わないくらい、教会の礼拝に出席している。だが、本当の私はそれほど信仰の篤い人間ではない。だから私が礼拝に出向く目的は、神を賛美するでもなく、聖書の理解を深めようというわけでもない。そんな模範回答的な理由などない。むしろ義務感から教会の礼拝に参加しているようなものである。例えば司会の役目があるからとか、役員会があるからとか、家族を連れて行かなければならないとか、その程度の理由だ。どちらかと言えば、行かざるを得ないから行っているようなものだ。

それではしがらみが一切なく、日曜の午前を思う存分好きなように過ごしても良いと言われたら、私はどうするだろうか。きっと最初の一週目や二週目は、家から一歩も出ずに「私の安息日」を過ごすことだろう。しかし、その後は、やはり文句を言いながらも礼拝に出席すべく教会に向かうに違いない。それは義務感からでもなければ、惰性でもない。強いて言うなれば、私の罪の身代わりとなられたイエス・キリストに対する恩義と言えるかもしれない。罪深い身であることに変わりのない、そんな私のような人間ができることは数少ない。せめて礼拝に出席することで、その恩に報いることができればと考えるのだ。

さて、安息日の過ごし方は様々であろう。ルカはある安息日の出来事をこのように記録している。「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った。『なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。』」(ルカの福音6章1~2節)律法学者たちには、イエスと弟子たちが働いているように見えたのだろう。彼らにしてみれば、神が定められた聖とすべき日に仕事をするとはけしからん、と思ったに違いない。

「イエスは彼らに答えて言われた。『あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家にはいって、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。』そして、彼らに言われた。『人の子は、安息日の主です。』」(同3~5節)

しかしイエスたちは仕事をしていたわけではなかった。空腹を満たすために、必要に迫られて麦を摘んでいただけなのである。安息日であろうがなかろうが、人は食事をしなければならない。それどころか安息日だからという理由で、その時食べる分だけでも収穫せずに我慢していたら、飢えてしまうかもしれない。イエスは自らを安息日の主であると宣言している。つまり彼のために聖なる日と定められた安息日をどう過ごすか、イエスご自身が言っているのである。彼が求めるのは、律法や伝統や習慣を守る律儀さではなく、人の必要に応じることのできる寛大さなのだろう。