神を煩わす

口内炎ができた。それも、ひとつではない。三つ。とても、痛い。私の好物のトマトの汁が、とてもしみる。そもそものきっかけは、ある日食事をしている時に、不覚にもくちびるを噛んでしまったことだ。すると、その傷が原因で口内炎ができてしまう。これで懲りて、しばらくの間、おとなしくゆっくりと食事をするように心掛ければ良いのだろうが、食い意地の張った私のことだから、少しくらいの痛みなら我慢して、大食い早食いをしてしまったのが悪かったらしい。ちょうど腫れている口内炎のところを、またもや噛んでしまったのだ。これで、隣り合って口内炎が二つである。二度あることは三度ある、と言うから、さすがに慎重に食事をしていたのだが、それでもちょっと気を抜いてしまったのか、はたまた二倍に腫れているから余計に出っ張っていたのか、またもや噛んでしまった。これで、三つ目。さすがにここまでくると、食い意地よりも痛みが勝ってしまい、何かを口にしたいという思いも失せてしまった。

さて、信仰者であれば信仰者らしく、口内炎の癒やしでも祈るべきなのだろうが、まぁ、そこまで神を煩わせるのも申し訳ない。いや、そこまで大げさに考えずとも、この程度のことはこれまで幾度もあったし、放っておいても時間が経てば治るものなので、あえて何かしようとも思わない。ドラッグストアに行ってビタミン剤を買うか、塗布薬を買うかすれば、少しは回復が早くなるかもしれないし、痛みが治まるかもしれない。だが、貧乏性なので、そうすることもなくただひたすらに我慢するのみである。元を辿れば、私の不注意と食い意地が原因なので、反省の念をもって、耐えるしかない。

しかし、改めて考えて見ると、口内炎ごときで祈ることが、果たして神を煩わせることになるのだろうか。神の為されることに優先順位をつけることは、私のような俗っぽい人間にはできないことを重々承知しているが、そんな私はこう考えてしまうのだ。私の口内炎などは神の「やることリスト」の末尾に位置しているだろうと。それというのも、もっと大きな問題を抱えている人々が大勢いることだろうし、何より神にとってもっとも重要なことは人々を神に立ち返らせることであろう。イエス・キリストはそのためにこの地上にこられたのではないか。信仰の中途半端な、私のような人間の口内炎を癒やすためではないのは確かだ。

そう考えてみると、やはり神を煩わせしまうのかもしれない。だが、それはあくまでも人間としての私の視点から見た場合のことである。

ところで、そろそろ話題を聖書に戻すとして、ルカが記録している安息日の出来事がもうひとつある。「別の安息日に、イエスは会堂にはいって教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。イエスは彼らの考えをよく知っておられた。それで、手のなえた人に、『立って、真中に出なさい。』と言われた。その人は、起き上がって、そこに立った。」(ルカの福音6章6~8節)

神の安息日だというに、律法学者たちは何をしていたのだろうか。彼らはイエスが何をするかを見張っていたのである。つまりイエスが彼らの信奉する「律法」を破るかどうかを見極めようとしていたのだ。彼らにしてみれば、イエスが人を癒やすのであれば、それを律法に逆らう行為として、イエスを糾弾しようと考えていたのだろう。モーセの律法を重んずるのであれば、神を礼拝すべき時に、本来の目的をそっちのけで神の子であるイエス・キリストを非難するための材料を探していたのだから、なんたる本末転倒。

「イエスは人々に言われた。『あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。』そして、みなの者を見回してから、その人に、『手を伸ばしなさい。』と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。」(同9~10節)

キリストが人々に問いかけている。それは難しいことではなく、誰でも簡単に答えられるものだ。会堂に集まっていた群衆も、また律法学者やパリサイ人たちも、誰もが答えを知っていたであろう。それは「善を行う」ことであり「いのちを救う」ことであろう。さらに、これらは安息日に限ったことではないし、誰も異を唱えることはないだろう。ここまで言われてしまうと、さすがに律法学者たちも手を出せまい。

イエスは何も律法をないがしろにしているわけではない。それよりも大切なことがあるということであり、何より安息日の主であるイエスご自身がそれを実践されたのである。イエスはそれほどまでに慈悲深い方なのである。してみると、どのような些細な願いであれ、神の子を煩わせることはないのであろう。