私には無関係

先週末は私の43歳の誕生日であった。さすがにこの年齢になってしまうと、いつが自分の誕生日なのかと、自分自身では意識しなくなってきた。何も年を重ねることを悔やんでいるわけではない。要するに、42だろうが、43だろうが、大した違いはないんじゃないかと、あまり気にならなくなってきただけである。それはさておき、私が信仰を持つようになったのは、たしか二十歳の時のことだったから、もうかれこれ23年間も信仰を持ち続けたことになる。今まで生きた年月の半分以上を信仰を持って生活してきたのだから、我ながらよく続いたものだと関心してしまう。とは言っても、信仰が篤いわけでもなく、それこそ生温い信仰だから、あまり褒められたものではないかもしれないが……まぁ、ともあれ、神を信じることをやめることなく、今日まで続いているのだから、それならそれで良いではないか。

しかし23年間という年月が、私の聖書に対する理解をどれほど深めることになったかと問われたら、なんとも答えようがない。だいたい年月を経ることで理解できるのであれば、昔の私よりも今の私の方が断然に賢くなっているはずである。だが、実際には、そんなに賢くなっているとは思えない。もちろん時間を掛けて経験を積み重ねることによって、理解を深めるということもあるのだろうが、それは十分な経験をしたということが前提であろう。

などと考えてしまうと、やはり聖書を理解するには、単に字面だけを追うような読み方ではいかんのだろうと反省せざるを得ない。聖書を文章として読むだけなら、そこに書かれていることを理解することは、必ずしも難しいものでもないだろう。もちろん、中には難解な箇所もあるだろうが、容易に理解出来る箇所もまたある。しかし、悩ましいのは、文章として理解できても、果たしてそれが自分にとってどのような意味を持つかを、汲み取ることができないこともある。例えば、今回見ようとしているルカの福音書において、イエスが語られている内容が、まさしくそれである。

「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。」(ルカの福音6章23~25節)

言わんとしていることは分かる。だが現実は私はそれほど「貧しい者」でもなければ、どう考えても「飢えている者」でもない。悲しみという感情が人より希薄な私が「泣いている」なんてことは、まずない。ましてや信仰のゆえに迫害を受けているわけでもない。などと考えると、私とは無縁のことらしく思えてくる。

その後で、イエスはこのように言っている。「富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。」(同24~26節)

なるほど、これも言葉だけ見れば、その内容は難しいものではない。だが先ほどと同じように考えてみると、実際にはローンの返済やら月々の支払いやらで毎月悩んでいる私は「富んでいる」とは言えないし、昼休みに外食する人たちを羨ましく思いつつおにぎりをかじっている様子を思うと「食べ飽きて」いるとは言えないだろう。最近、太り気味なのでやむを得ないのだが、つらい。それに、一日中笑っているほど楽しいことがあるわけでもない。

すなわち、こういうことになる。私は悲しんでもいなければ、笑っているわけでもない。貧しくないからといって、豊かなわけでもない。飢えてないからといって、満ち足りているわけでもない。人々からけなされているわけでもないが、ほめられているわけでもない。ここでイエスが言っていることは、私には当てはまらないのである。だから、ここに書かれていることは、私にはまるで関係がない。

……というわけにはならない。そもそもこれは私に向けられた言葉ではなく、側にいた弟子たちや、集まった群衆にイエスが語ったものである。それを踏まえて読むのが正しいのだろう。つまり、聖書はけっして自己啓発本ではないということだ。自分には関係ないようなことに思えても、神が必要と考えられたからこそ、聖書として残されているのであり、ゆえに神がその主体なのである。