神があわれみ深いから

私には敵がいない、少なくとも私はそのように思っている。また考えてみると、私を憎む者は、おそらくいないだろうし、私をのろう者もいないだろう。傷害容疑で起訴されるリスクを冒してまで私を殴ろうとする者もいないだろうし、着古された私の上着なんかを奪い取るような者もいないはずだ。しかし、世の中は広い。そして、様々な人たちが日々生活をしている。そのなかには、私を苦手に思う者もいるだろうし、虫が好かないと思う者がいたとしても不思議ではない。一緒に居たくないと思われることもあるに違いない。もちろん、誰もそのようなことを口に出して言うことはないが、いくら鈍感な私ですら、さすがにその程度は雰囲気で分かるものである。

とはいえ、それが普通であろう。誰からも愛されていると浮かれて考えているのは、よほどの自信家であるか、もしくはどうしようもないほどの能天気だ。四方八方を敵に囲まれて生きてると不安に思うのは、重度の被害妄想にとらわれているか、さもなくば過剰なまでの自意識の持ち主だ。人から好かれもすれば、嫌われもするのが、普通に生きていれば当然のことなのだろう。もしかしたら、誰からも好かれたいと考える人もいるかもしれないが、残念ながらそれは無駄な願いというものだ。むしろ人から嫌われたとしても、自分の信念を貫き通すのが価値のある生き方なのではないかと私などは思ってしまう。しかしながら、そのどちらにもなれないのが現実だ。善人にもなれず、悪人にもなれず、中途半端のろくでなしとは、まさしく私のことなのだろう。

まぁ、いつまでも私のことを書いてもしかたない。だが改めて言っておくが、先に書いた箇所はルカの福音書に記録されているイエス・キリストが話された内容を読んでの、私の正直な感想でもある。「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。」(ルカの福音6章27~29節)

文字通りに受け取るのであれば、私はとても楽な立場にある。誰かを愛する必要もなければ、誰かに善を行う必要もない。祝福する相手も、祈る相手もいない。誰かに自ら殴られにいくこともないし、持ち物を差し出すこともない。

もちろん、イエスはそのようなことを言っているのではない。続く箇所で、イエスはこのように言っている。「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。……自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。……返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。」(同32~34節)

自分に何かをしてくれる者に対して、同じことをするのは、何も特別なことではないという。それは誰もがしていることであり、それこそイエスの言葉を借りれば「罪人たちでさえ、同じことをして」いるのである。そこまで言われてしまうと、イエスに従おうとする人々にとっては、それだけでは十分ではないと認めざるを得ない。

自分を愛さない者を愛し、自分を祝福しない者を祝福し、自分に何もくれない者に与えるとは、損か得かで考えてしまうと、無駄な労力やら時間やら財産を費やすようで、どう考えても損なこと思えてならない。しかし、イエスはそれを望んでおられるのであり、その理由をこう説明している。「なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(同35~36節)

敵を愛すること。憎む者や蔑む者に善くすること。奪う者に与えること。これらのことが道徳的に正しいからと、そのような単純というか、安易な偽善っぽい理由からではないことは確かである。むしろ、そのような理由で人に接するのであれば、イエスの教えようとしていることが正しく伝わっていないことになるのではないか。

イエスは、天の父なる神があわれみ深いと言っている。そして神のあわれみは、神を信じ敬う者だけに限定されておらず、神を顧みることのない者に対しても向けられているのだという。つまり、神はすべての人々に対してあわれみ深くあるのだ。であるから、神の慈悲を受けた者として、同じように神から慈悲を受けている者に対して、人があわれみを持たないというのは、神の思いに抗うことになるのかもしれない。イエスが伝えようとしているのは、神に倣って人も互いにあわれみ深くあれ、ということなのだろう。