良い木、良い倉

何が良くて、何が悪いのか。答えが分かるようで、分からないような、何ともスッキリしない気分である。それもそのはず、世の中の多くのことは、良い悪いの二元論で簡単に説明することはできないからだと思う。例えば、戦争は悪で平和は善であるというのが一般的な見解であろう。もちろんそのこと自体に異論はないが、そこで議論を終えてしまうことには、いささか納得できない。別の視点から考えてみれば、戦争が善となるだろうし、平和が悪にもなることもあり得るだろう。何でも善と悪の二つに分けてはっきりさせようとするのなら、ずいぶんと偏った考え方の持ち主になってしまいそうだ。そうやって何事も簡単に結論づけてしまうのは、物事を深く考えることをやめてしまうことにもなる。そうなると、周りの言うことに流されるだけの主体性のない存在になりかねない。

ところで、善と悪について、たとえの中でイエスはこのように言っている。「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。」(ルカの福音6章43節)何が良くて、何が悪いのか、それが分からないと、イエスの話していることを理解するのは難しい。残念なことに、この話の前後においてイエスは、良いことまた悪いことについて、それらが何であるかを明確には説明していない。はっきり言ってくれたら、もっと分かりやすいだろうにと思うのであるが、仕方がない。

しかし、それらがどこから出てくるのかは、イエスの次のことばから知ることができよう。「木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」(同44節)いばらや野ばらからは、食べられる実を収穫することができない。果実は果樹からしか収穫することができないのである。当たり前と言えば、当たり前のことであるから、これもまた納得できよう。もちろん、良い木とは、悪い木とは、という疑問はまだ残るのだが……つまりはこういうことではないか。悪いものからは悪いことしか生まれないが、良いものからは良いことが生まれる。

さらに続けて、イエスはこのようにも言っている。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」(同45節)

人から出てくるものは、その人の心にあるものがもとになっている、ということであろう。もし人の心に不平や不満があれば、それは文句や愚痴となって出てくるということだろうか。なるほど、自分自身を省みると、これは納得できる気がする。私などは悪い倉どころか悪いものの宝庫になってしまいそうだ。辛うじて抑えているが、口を開けば、文句、愚痴、嫉み、欲望、罵詈雑言のたぐいが尽きることなく出てきそうだ。それに比べて、人に対する情けとか思いやりとかあわれみとか、絞り出してもなかなか出てきそうにない。そのような言葉が出る前に、私自身が干からびてしまいそうだ。

そう考えてみると、何が良くて、何が悪いのか、一般論で結論を出すことは無理かもしれない。しかし、私に限定するのであれば、私は悪い倉の持ち主ということになるだろうし、悪い実を実らせる悪い木であることも明白だ。ここまで分かっていながら、反省するならまだしも「ふん、それがどうした」と開き直っているのだから、始末に負えない。

続く箇所でイエスはこのように言っている。「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。」(同46節)どうやら開き直ったのは私だけではないようだ。おそらく歴史を通じて、私と似たような考えを持つ人々が他にも大勢いたかもしれないし、まさにその場でイエスの話を聞いていた人々のうちにも、そのように考えていた人たちがいたのかもしれない。だがそう言われても、私も含めて私の同類はすぐに悔い改めるような連中ではないだろう。「そんくらい、言われなくても分かってるわい」と聞かなかったことにするかもしれない。

ところが、最後にイエスは戒めのことばを残している。「聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」(同49節)イエスの言うこととは、先に見たように神がそうであるように、人に対してあわれみ深くあれということであろう。そうしないことで神が罰するわけでもなければ、地獄へ一直線というわけでもない。だが、何か起きたときに、痛い思いをすることになるということを覚悟せよ、ということだろうか。これは私の勝手な理解であるが、人をあわれまない者は、人からもあわれまれないということなのかもしれない。そう言えば、日本語にもあるではないか。情けは人の為ならず、と。そう考えると、良い倉から良い物を出せば、その倉は様々な方法でさらに多くの良い物で補充されるということなのだろうか。良い実を実らすことは、それだけ多くの祝福を得られるということなのだろうか。