同情する神

困った時の神頼み、人はそのように言うことがある。もし信仰の篤い人が聞いたのならば、そのような自分の都合で神を頼ろうとするのは本当の信仰ではないと、非難するかもしれない。また信仰を持たない人が聞いたのならば、努力を怠って他者にすがろうとはけしからんと、叱るかもしれない。時が良くても悪くても、神に感謝し賛美を捧げることが、真の信仰である。もちろん、その通りである。問題を解決する過程において、人は経験を積み新たな知識や知恵を得るのである。それもまた然り。そのようにして考えると、どうもこの「困った時の神頼み」という言葉には、良い印象を持つことができなくなってしまうのも、仕方のないことだろう。かく言う私自身も、この言葉がどうしても好きになれないのだ。

しかしながら、口に出すことはなくとも、誰しも胸の内では似たような思いを持ったことがあるだろう。困難に直面したときに、誰かに助けを求めたくなったことがあるに違いない。それが人というものではなかろうか。もちろん、そのような困窮して弱っている自らの姿を、実際に人に見せるかどうかはその人次第であろう。だがそうは言っても実際には、如何に神に感謝をしていようとも、またどれほど勤勉に日々過ごしていようとも、問題というのは避けられないものである。神への忠実な思いがあったとしても、またどれほど鍛練を積んでいたとしても、どうすることもできない事があるかもしれない。もはや万策尽きたとき、人は誰かに頼りたくなるだろう。頼る相手は、ひとそれぞれだろうが。

何だかんだ言っているが、結局のところ私自身もそのようにして今までに何度も人を頼ったこともあれば、神に助けを求めたこともある。もちろん可能な限り、自分であれやこれやと試みて、もはやこれ以上私に出来ることがないと見極めてからそうするように心掛けているが。不思議と今までやってこれたのは、人から助けられ、神から助けられたからであろう。世間も社会も人も神も、まだ私を見捨ててはいないようだ。

さてイエス・キリストがこの地上で暮らしていた時、彼の噂を聞きつけた人々が彼に助けを求めて集まり、苦境に立たされていた人々をキリストが助けたというのは、今までも読んだ通りである。だが彼は彼を求めて集まってきた人々だけを助けられたのかというと、実はそうでもなかったようだ。ルカの福音書にはこのように記録されている。「……イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい。』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい。』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」(ルカの福音書7章11~15節)

すでに死んでしまった青年に、イエスは再び命を与えたのである。すごいことである。しかし、神にとって不可能なことはないということを知っていれば、神の子である彼が死んだ青年を生き返らせたというのは、不思議ではあってもあり得ないことではないことは分かる。ここで気になるのはそこではない。それよりも、イエスに対して何も求めなかったこの母親を、なぜ彼は助けたのかということであろう。彼女がイエスに助けを求めなかった理由については何も書かれていない。もしかしたら、すでに手遅れと諦めていたのかもしれない。

それにしても、なぜイエスはこの母親と息子を助けられたのだろうか。イエスは「その母親を見てかわいそうに」思ったという。かわいそうと言うと、どうも漠然としている気もするので、参考までに他の訳ではどのように書かれているのか見てみよう。「主はこの母親を見て、憐れに思い……」(新共同訳)「主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ……」(口語訳)イエスはこの女性を憐れみ、同情を感じたのだ。つまり、彼はこの女性と共に悲しみ、息子を失った彼女の苦しみを共有されたのである。その重みは、おそらく一人の人間にとって耐え難いものであると、彼は感じられたのだろう。彼はこの青年を生き返らせることで、彼女をその悲しみから解放しようとしたのではないか。「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント第一10章13節)

神は私たち人間の問題を高みから見て、小さなことよ、とは言わない。それどころか、人の様々な悩み、心配、苦しみ、悲しみを共有しているのだ。だから人は神に事細かく事情を説明せずに、助けが必要ならただ求めればよいのだろう。