ヨハネの疑問

キリスト者と自認しているわりには、熱心とはほど遠く、どちらかと言えば生温い信仰しか持っていない私ではあるが、聖書六十六巻が神のことばであるということについては微塵も疑いを持っていない。とは言っても、そこに書かれていることに何の疑問も抱かないというわけでもない。私はそれほど純真な人間ではない。むしろ物事を懐疑的に見てしまうような人間である。だから仕方が無いと言えば、仕方が無い。神のことばであることは疑っていないにしても、そこに書かれていることを疑ってしまうということは、つまり神を疑っていることになってしまうのだろうか。いや、自分を弁護するわけではないが、それもちょっと違うような気がする。

たとえば、有名な箇所であるが、聖書にはこう書かれている。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(創世記1章1~3節)天地創造の話である。神が世界を創造されたということを、私は疑っていない。そのやり方が具体的にはどのようなものであったのかについては、何も書かれていないから何とでも解釈することができよう。神が文字通り光を創られたのか、それともすべての物質とエネルギーの爆発的な膨張を起こしたのか……いずれにせよ宇宙には始まりがあり、その始まりに神がおられたということを私は信じている。

ところが、続けてこう書かれている。「神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。」(同4~5節)さて、ここが問題である。「第一日」とあるからには、神が一日、つまり二十四時間でこれらのことを成し遂げたのか、ということである。どうもこれを信じられないのである。いや、時間に縛られることのない神であるから、千年でも一日でも、それこそたとえ一秒であっても同じはずだ。だから、神にとって一日で世界を始めることが不可能だと疑っているのではない。ただ、一日というのが、きりが良すぎて信じがたいだけなのである。そもそも「地は形がなく、何もなかった」という状態であれば、すなわち時間も存在していなかった。そこから宇宙ができて……と考えると、一日という単位ではあまりにも人間に都合が良すぎる気がしてしっくりこないのである。もちろん、聖書を書いた人物が、誰でも分かりやすいように、という思いを込めてこのように書いたのであれば、それならそれで納得もできようが。

どうやら人というのは、自らの知識や体験、意見や期待に合わないことには、疑問を持ってしまうものなのだろうか。

さて、前置きが長くなり恐縮だが、意外な人物がイエス・キリストが待ち望むべき救い主であるかと疑問に思っていたようである。「ヨハネは、弟子の中からふたりを呼び寄せて、主のもとに送り、『おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。』と言わせた。」(ルカの福音書7章19節)

「主の前ぶれをし、……整えられた民を主のために用意する」と御使いに告げられ、まだ母の胎内にいる頃に、同じようにマリヤの胎内にいたイエスと出会い、また成長してからはヨルダン川のほとりの荒野で「罪が赦されるための悔い改め」を人々に教え、バプテスマを授けていたほどに神に忠実な人物であった。そればかりか、イエスその人にもバプテスマを授け、鳩のように聖霊が彼のもとに下るのを見て、天からの声を聞くという経験したほどの人物でもあった。その熱心さゆえに一部の権力者から怒りを買い、挙げ句にヘロデ王に対しても臆することなく、王の悪事を責め立てたので結局は捕らえられ投獄されてしまうことになるのだが、それほどまでに一途な人物であったと想像できよう。そのようなヨハネが抱いた疑問が、果たしてイエス・キリストは、彼を含めてイスラエルの民が期待すべき王なのであろうか、ということであった。おそらく彼はイエスを疑ったわけではないであろう。ただ、彼が期待していたイスラエルの王の姿とは違っていたので、どうも腑に落ちなかったので、直接イエスに尋ねることにしたのかもしれない。

イエスは二人に答えた言った。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(同22~23節)

人が自分であれやこれやと考えてしまうと、どうしても自分自身の勝手な思いが入り込んでしまうものであろう。何が起こったのか、何を見て、何を聞いたのか、そのような客観的な事実がイエス・キリストが何者であるかを示すということだ。