細く長く

仕事であれ勉強であれ何であれ、人から言われて行動するというのは、あまり気持ちの良いものではない。自らの経験からも言えることだが、人から言われてやることは、たいがい長続きしないものである。そもそも、最初からあまり気が進まないことなのだから、途中で頓挫してしまうのも仕方が無いことだろう。まぁ、所詮はただの言い訳かもしれないが。ところがその反対に、言われなくともやるようなことは長続きするものである。それもそのはず、好きでやっていることなのだから、むしろやめろと言われても続けてしまうものだろう。好きこそものの上手なれ、とは言うけれど、好きなことであればそれだけ経験を積むことになるのだから、このことわざの言うことにも一理あるだろう。

もちろんやりたいことだけをやって許されるほど甘い世の中ではない。人から言われることに従わざるを得ないことも往々にしてある。と言うか、現実にはそちらの方に費やされる時間の方が長いかもしれない。誰もいない森の奥深くに住んでいるのであれば話は別かもしれないが、多くの人々に囲まれ、様々な制度に組み込まれて生きているのだから、気の進まないことを避けては通れない。

振り返ってみれば、私がイエス・キリストを救い主として受け入れ、キリスト者として信仰を持つようになってから、二十年以上になる。年齢を重ねるごとに、経験を重ね信仰を深める、というのが理想なのかもしれないが、年々緩くなっているというか、適当になっているという気がしなくもない。しかし、たとえそうであったとしても、途中で飽きることもなく、挫折することもなく、今までの人生の半分以上に渡って信仰を維持してきたというのは、もちろん人から言われたからではない。実際のところ、信仰というものは、見た目にはっきりとした何かを得られるようなものではない。言い方は悪いかもしれないが、損か得かで言ったら、損にもならないが、必ずしも得にもならないようなものだ。そのようなものであるから、もし人に言われて私が信仰を持ったとしたら、おそらく私の性格からすれば、早々に飽きてしまい放り出していたことだろう。そう考えると、冷めたものではあっても自らの意志で信仰を持ち続けていることは確かである。。

さて、ルカはこのように記録している。「イエスは、神の国を説き、その福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。」(ルカの福音書8章1節)イエスの伝道の旅はまだ続いていた。しかし彼の旅は孤独なものではなかったようだ。「十二弟子もお供をした。また、悪霊や病気を直していただいた女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリヤ、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか自分の財産をもって彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった。」(同1~3節)

十二人と弟子たちと、イエスによって助けられた女性たちが、イエスと一緒に旅をしていたという。ところで、彼らは誰かに言われてイエスと共にいたのであろうか。おそらく彼らは自らの考えでイエスに従っていたのだろう。しばらく前に見たが、漁師を生業としていた弟子たちは舟も家も仕事もすべてを後に残して、イエスに従うことに決めてこの時までイエスと共に過ごしていたはずだ。同じように、イエスに救われた女性たちも自分たちの財産をもってイエスや弟子たちに仕えていたと書かれているではないか。人から言われて、ここまで出来る人はそう滅多にいるものではないだろう。普通に考えれば、自腹でどこかに行くのであれば、自分の行きたいところに行くに違いない。わざわざ自分の財布から金を出して、人から言われたからと出掛けていく人はいないだろう。もし私なら、その人に交通費と経費、ついでに小遣いまでも請求することだろう。

イエスに従うこと、信仰を持つことに必要な条件はないだろう。また、信仰に善し悪しもないであろう。しかし人から勧められたとかで、いっときだけ信仰心を熱く燃え上がらせるが、その後は飽きたとか、興味が失せたとか、面倒になったとかで、途中で忘れ去られてしまうような、たとえて言えば、太くとも短い、終わりが見えてしまっているような信仰よりかは、細くても長い、それこそ終わりが見えぬほど長い、命の限り永遠に続く信仰の方が、その人にとって恵みをもたらすのではないだろうか。