良い地に落ちる

毎年、今くらいの時期になると悩むことがある。買おうか、買うまいか、である。何を、と言えば、そんな大層なものではない。宝くじのことだ。この時期、三つの考えが頭の中を駆け巡るのだ。一つ目、「買わなきゃ、当たらない!」二つ目、「買ったら、もしかしたら当たるかもしれない。」三つ目、「買っても、どうせ当たりっこない……」楽観的だったり、悲観的だったり。ここ最近、宝くじを購入していないことを考えると、どうやら三つ目の考えが他の二つに勝っているのだろう。世間には、当たるか当たらないかは別として、夢を見るために宝くじを買うという人たちもいるようだが、夢を見るために三千円を払うのはもったいないと、ケチな私は考えてしまうのである。夢を見るだけなら、タダでも十分ではないかと思うのだが、落ち着いて考えてみれば、夢を見るだけではなく、その夢を実現させる可能性も手に入れることにもなるのだから、やはり三千円の価値はあるのかもしれない。

しかし、いざ当選番号を確認して外れていることに気付くと、夢は所詮夢でしかなかったのかと、改めて現実の厳しさを思い知ることになるのだ。やはり勿体ないことをしたと、後悔しても遅い。そんなことを考えてしまうと、宝くじなんていうのは、あれやこれやと余計な心配などせずに、その場の勢いや、その時の思いつきに任せて買って、抽選日まで好き勝手に適当な夢を思い描くのが、最たる楽しみ方なのであろう。

それにしても先が読めないというのは、色々と期待できるものも多いかもしれないが、反面それらが叶わなかったときには多かれ少なかれ失望が伴うものであろう。しかしながら、がっかりさせられることを嫌がって、将来に何も求めないというのは、それはそれで面白みに欠けている生き方に違いない。

ところで、世の中には先が読めることも少なからずあるだろう。宝くじの当選番号は読めなくとも、明日の天気くらいは予想することができる。過去の様々な事象の積み重ねから、完璧とは行かないまでもある程度の精度で予見することができるものはあるだろう。

さて、イエス・キリストのことばに従うのであれば、人の信仰というのもその行き着く先がどのようなものであるか、ある程度は知ることができるようだ。彼はこのようなたとえを話された。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると、人に踏みつけられ、空の鳥がそれを食べてしまった。また、別の種は岩の上に落ち、生え出たが、水分がなかったので、枯れてしまった。また、別の種はいばらの真中に落ちた。ところが、いばらもいっしょに生え出て、それを押しふさいでしまった。また、別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」(ルカの福音書8章5~8節)たとえの意味は本人が解説しているので、私ごときが口を挟む余地はない。「種は神のことばです。道ばたに落ちるとは、……みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。岩の上に落ちるとは、……聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとは、……みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。しかし、良い地に落ちるとは、……正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(同11~15節)

キリストのたとえには難解なものが多いが、これは伝えるところが明白である。どう頑張っても、人が自分の都合の良いように解釈するのは難しい。神のことば―もちろんそれにはイエス・キリストが伝えている神の国の良き知らせ、つまり福音も含まれているだろう―を聞いて、人がそれに対してどうするかで、その人の信仰の行く先が見えてくるのだ。先のことが分かってしまうのはつまらないと言えば、それまでかもしれないが、考えようによっては先のことを変えられるということにもなろう。

このたとえの中で言うのであれば、いばらの中に落ちた種というのが今現在の私を表していると思う。確かに福音は聞いたし、聖書も読んでいるが、何かと世の中のことに目や耳を奪われてしまっている。信仰心がないわけではないが、それ以外のことに時間や、肉体的および精神的な労力が費やされていることの方が多いのが現実だ。さすがに、私から神のことばが奪われることはないだろうし、私自身が神から身を引くことはないだろう。だが、私の信仰が実を結ぶこともないだろう。もちろん実を結ばずともよいと言うのであれば、今のままでも構わない。しかしながら、福音を後世に伝えるために何かをしたいという願いもないわけではない。……信仰者としてのただの意地かもしれないが。

そう願うのであれば、いばらを取り除けて、神のことばが育つ良い地を耕すことで、信仰の行き着く先を変えることができるのかもしれない。