みことばを聞く

私も信仰者の端くれであるからには、毎週日曜にはできる限り教会の礼拝に出席するようにしている。礼拝に行く理由はいくつかあるが、神のみことばである聖書を学ぶため、というのもそのうちの一つである。などと、もっともそうなことを口にしてみるのだが……正直に言うと、どうもいけない。賛美が終わって牧師先生の話を聞いていると、だんだんと眠たくなってくるのだ。なんとか目を覚ましていようと思うのだが、眠気が増してくると、どうとでもなれとそのまま眠気に身を委ねてしまう。途中で目を覚ますこともあるが、それならまだマシな方で、場合によっては話が終わって祈りの時間に目を覚ますこともある。まことに申し訳なく思うのだが、ただでさえ寝不足気味なところに、空調が具合良く効いている部屋に座っているのだから、目を覚ましていろという方が難しい。まぁ、言い訳でしかないのだが。

そう言えば、弟子たちでさえもイエスが祈っている時に、居眠りをしていたではないか。イエスが黙っていたのならまだしも、目を覚ましていなさいと言われていたにも関わらずである。それにひとりの青年は、使徒のパウロが話をしているときに眠ってしまい、運悪く三階の窓辺に腰を掛けていたがために、そのまま下まで落ちて死んでしまったこともあった。ついでに言うと、パウロが彼を抱きかかえると、彼は生き返ったというから、まずはめでたしと言うべきか。目を覚ましているべきときに眠ってしまうのは、どうやら私だけではないようだ。もちろん、私の居眠りを正当化するわけではないが、人というものは、どれだけ意識して目を覚ましていようとしても、眠気には勝てないのである。生きているからには、睡眠が必要なのだから、どうしようもない。

さて、前回も見たところだが「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカの福音書8章15節)とイエス・キリストが言うように、良い実を結ぼうと思うのであれば、まずはみことばを聞かなければならない。礼拝の最中に居眠りをしてしまうようでは、実を結ぶどころではない、と自責の念に駆られてしまうのだ。もちろん、みことばを聞くのは必ずしも教会でしか実現できないものでもない。もっとも簡単な方法は、聖書を読むことであろう。便利な世の中になったもので、わざわざ国語辞典ほどの大きさもある聖書を持ち歩かずとも、手のひらに収まるスマホでも読むことができるようになった。それこそ電車の中で立ったままでも、神のみことばを読むことができるのだ。日曜の礼拝のように時間や場所に縛られることもない。だが、それでみことばに触れる機会が増えたかと言えば、実際はそうでもない。結局のところ、私の意志が弱いだけなのか。

続く箇所で、イエスはこのように言っている。「あかりをつけてから、それを器で隠したり、寝台の下に置いたりする者はありません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現われないものはありません。だから、聞き方に注意しなさい。というのは、持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っていると思っているものまでも取り上げられるからです。」 (同16~18節)

おそらくイエスは神の福音について語っているのだろう。神の福音を聞いたのであれば、それを隠すことはないということだろうか。別の箇所になるが、イエスは自らのことを世の光であると言っている。であれば、彼の伝えるみことばも同じようにこの世を照らす光となるのだろう。それは人目を憚るようなものではないし、こっそりと隠しておくようなものでもない。いや、隠しておけるようなものではないのだろう。暗闇の中ではわずかな明かりでさえも目立って見えてしまうように、世の光である福音を誰の目にも留まらぬような場所にしまっておいたとしても、その光は漏れてしまうのだろう。もし人がその光を恥じと思うか、もしくは勿体ないと思うか、いずれであれそれを隠し通そうとすれば、世の光である神のみことばはその人から取り去られてしまうのかもしれない。ちょうど道端に落ちた種が鳥に食べられたり、岩の上に落ちた種が枯れてしまったりするようなものであろう。しかしみことばを隠すことなく、それこそ世の中を照らすことができるように表に出しておくのであれば、それは良い地に蒔かれた種が多くの実を結ぶように、多くの祝福を自分自身にも、そして周囲にももたらすことになるのかもしれない。

みことばをただ聞いて、自らの内に留めて満足するだけでは、十分ではないのだろう。とは言え、まずはみことばを聞くことから始めねばなるまい。