イエスが眠るなら

人にとってはどうでもよい話かもしれないが、私は長生きしそうである。とはいっても、確たる根拠があるわけでもない。たしかに自分の手のひらを見たときに、生命線がやたらと長いとは思うが、それが理由というわけでもない。ただ直感としてそう感じるのだ。動物的な勘とでも言うべきであろうか。信仰者であることを考えれば、神が私に長寿を約束して下さっていると考えるのが模範的な姿勢なのかもしれないが、そういうわけでもない。もし私の長生きに神様が関わってくるとすれば、ちょっとばかり違ったものになるのではないかと、私は考えている。このような私でも信仰者の端くれであるからには、この世での人生を終えたら、やがては天国に行くことになる。聖書に従えば、そこは悩みも苦しみもない世界だというではないか。つまり今の生活で感じている、不安や悩みや心配や苦労のすべてから解放されるということだ。いやいや、神様が私のような生ぬるい信仰者にそんな楽をさせてはくれないだろう。勝手な想像かもしれないが、神様の目から見たら、おそらくまだまだ働き足りないのだろう。自分でもそのように感じているくらいだから、まだまだこの地上で生かされ続けるに違いない。

さて、神が私を生かし続けようと考えているのならば、私は様々な災難や危険から守られているということにもなるだろう。それはそれで感謝なことである。ところが、人は常に一人でいるものではない。人付き合いの悪い私でさえも、自分ひとりでいる時間よりも、他の誰かと一緒にいる時間の方が多いだろう。例えば電車の中のように、周りが赤の他人だとしても、孤独でいるわけではない。つまりこう考えることもできよう。神が私を守っているのであれば、私の周囲にいる人々も同時に守られている、と。私が乗っている飛行機は墜落しないだろう。私が乗っている船は沈没しないだろう。私がいる建物は崩れないだろう。中途半端な信仰も、たまには人の役に立つようである。

ところで、神が私のような人間を守るのであれば、もっと神の近くにいるような信仰の篤い人々、これからの活躍を神に期待されているような人々を守られるのは当然のことであろう。ルカの福音書にはこのような出来事が記録されている。「ある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、『さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。』と言われた。それで弟子たちは舟を出した。舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、『先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。』と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。」(ルカの福音書8章22~24節)

弟子たちは自分たちの意志で舟に乗り、どこかに出掛けたのではなかった。それどころか、彼らの師であるイエス・キリストの言いつけに従っただけである。それなのに嵐に巻き込まれてしまい、とんでもない目に遭っていたのだ。なんと言っても彼らの多くは前職が漁師である。水には慣れているはずだし、多少の嵐も経験済みだろう。そんな彼らでさえ、もはやこれまでと感じた程だったのである。では、彼らに湖に出るように言った当の本人はどうしていたかと言えば、弟子たちの恐れや不安をよそにぐっすりと眠っていたというではないか。それほどまでに荒れた湖で激しく揺れる舟の中で、よくも眠っていられるものだと、関係ないところで感心してしまうが、よほど疲れていたのだろうか。イエスが眠っていたということは、つまりは何も心配する必要がなかったからに違いない。風がどれほど強く吹き付けようとも、波がどれほど高くなろうとも、彼は気にも留めなかった。なぜなら風も波も、創造主である彼の支配下にあったからだ。もとより彼に忠実に従ってきた弟子たちを危険にさらそうなどとは思ってもいなかっただろう。

弟子たちに起こされて、イエスはことばでもって嵐を静めた。ようやく弟子たちはひと安心したことだろう。だが、彼はずぶ濡れになった弟子たちを励ますどころか、むしろ彼らをたしなめられたのだ。「イエスは彼らに、『あなたがたの信仰はどこにあるのです。』と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。『風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」(同25節)

弟子たちの信仰はどこにあったのか。嵐のさなか、彼らと一緒にいたイエスにではなく、目の前の風と波とに彼らは目を向けてしまったのだ。そのため、どうやったらおぼれずに助かることができるかと必死になるばかりで、なぜイエスが眠っておられるのかに気付けなかったのだろう。すべてを統べ治めておられるイエス・キリストが大丈夫と感じているのであれば、たとえ目の前の状況はどうであれ、あらゆる災いは遠ざけられているのだろう。イエスが眠っているのであれば、我々も安心して眠れることができるのだ。