豚に罪なし

人は生まれながらにして罪がある、というのは聖書が教えている通りだ。そこでふと思うのだが、動物はどうなのか。私の知る限りでは、聖書には何とも書かれていない。それとも、私が見落としているだけなのだろうか。ところで旧約聖書には、清くない動物を食べてはならないと書かれているが、清くないというのは、それらの生き物に罪があるからと言うわけでもないだろう。これは私が以前どこかで聞いた話だが、旧約聖書に記されている食べ物に関する律法というのは、衛生面において食べるのに相応しくないと意味もあるそうだ。つまり、イスラエルの民が食中毒に掛かったり、寄生虫の宿主になって苦しむことがないようにするための、神による食品安全対策だったと見ることもできよう。

とは言っても、一部の動物、特に肉食獣などは獰猛だと見られてしまい、野獣だとか獣だとか言うと、どちらかと言えばネガティブな意味で取られてしまうことの方が多いのではないか。人間でも残酷なことをする者を「獣のような」とたとえて言うこともあるくらいだ。しかしよくよく考えてみると、この言い方は誤っているのではないか。というのも、動物は生存のために残忍になるのであるが、人間は自己の欲望や欲求を満たすために、そうなるのだ。悲しいかな、人というのは、たとえ我が子であっても手に掛けてしまう存在なのである。獣のような、どころか獣にも劣る振る舞いである。創造のはじめ、動物を支配する立場として、神は人間を創造された(創世記1章26節)。しかし、優れた存在であるがために、人は罪を負うことになってしまったのだろう。そう考えると、動物には罪という概念もなさそうである。では、罪がなければ、動物は悪い霊に憑かれることもないだろうか。人のように欲がなければ、悪霊に付け入られる隙もないのかもしれない。

いや、そう言えば、動物に悪い霊が憑いたという話を一つだけ思い出した。ルカはそのことをこのように書き残している。「悪霊どもは、その人から出て、豚にはいった。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖にはいり、おぼれ死んだ。」(ルカの福音書8章33節)豚にとってはトンだ不幸なことである。悪霊に取り憑かれて、湖で溺れ死んでしまったのだから。

さて、それにしてもなぜ豚に悪い霊が憑いてしまったのだろうか。ルカはこう書いている。ガリラヤ湖で嵐に遭遇した後のことである。「こうして彼らは、ガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着いた。イエスが陸に上がられると、この町の者で悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた。彼はイエスを見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言った。『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。』それは、イエスが、汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからである。汚れた霊が何回となくこの人を捕えたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのである。」(同26~29節)

なるほど。そういうことである。そもそも汚れた霊はひとりの男に取り憑いており、その人を苦しめていたそうだ。イエスがやってきたことを知った霊は、男の口を通して、苦しめないで欲しいと願った。散々にその人を苦しめておきながら、なんとも身勝手なものである。さらには「悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。」(同31節)

悪霊たちはイエスに底知れぬ所に追いやられることを恐れていたようだ。底知れぬところはどこだろうか。果たして地獄か、それともまた別の場所なのか。おそらく後者であろう。罪人には悔い改めて赦される機会が与えられているが、汚れた霊にはそのような機会は与えられていない。そう考えると、その行き着く先というのも違ってくるだろう。黄泉よりもさらに深く、地獄よりもさらに恐ろしい場所なのだろう。もっとも人にそれを知る必要はない。底知れぬ所でなければ悪霊たちはどこへ行くと言うのか。「ちょうど、山のそのあたりに、おびただしい豚の群れが飼ってあったので、悪霊どもは、その豚にはいることを許してくださいと願った。イエスはそれを許された。」(同32節)

ということである。豚が溺死したことで、悪い霊もそのまま消滅してしまったのだろう。罪のない豚は天国までトンでしまったのだろうか。さて男は救われ、汚れた霊は消え去り、一件落着のようである。しかし、その様子を見た人々、また話に聞いた人々はイエスを歓迎するどころか、むしろ恐れを為してしまい、彼に立ち去って欲しいと願った。これだけの奇跡を目にし耳にしていながら、彼らは一人の男が救われたことよりも、家畜であり財産でもある動物が失われたことに目を向けてしまったのだ。罪を負って生きる人間ひとりが神によって救われることは、他の何にもまして価値のあることであろう。