信じて従うは易からず

信仰を持つようになってから……と、もういい加減に数えるのが面倒になってきた。とにかく今まで生きてきた人生の半分以上を、信仰者として過ごしている。もしかしたら、そんな風には見えないかもしれないが。実際のところ、自分自身を振り返ってみても、模範的な信仰者として生きているわけでもないし、自分は信仰者であると人々に宣伝しているわけでもない。人から聞かれたら私はキリスト者であると答えるだろうが、あえて自分からそのことを人に言おうとも思わない。もちろん人に遠慮をしているわけでもなければ、信仰者であることに抵抗を感じているわけでもない。要するに私が信仰者であるかどうかは「どうでもいい」ことなのだ。いや、まるでどうでもいいというわけではない。私と人との関係においては、さほど重要なことではないということだ。おそらく多くの人々にとって、何の意味もなさないに違いない。それよりも、私が信仰者であるかどうかは、救い主であるイエス・キリストと私との関係において意味を持つものなのである。

この世界で生きるにおいて、私が信仰者であるかどうかよりも、まず私が個人的に気にしていることは、いかに人に迷惑を掛けずに日々を過ごすかということである。電車の座席は詰めて座るようにしているし、エスカレーターでは左側に寄って乗るようにしている。また税金は納付期限を守るようにしているし、依頼された仕事はスケジュールを守りつつミスがないように注意をして行うようにもしている。さすがに完璧とまではいかないが、可能な限り他の人の損にならないように諸事気をつけながら過ごしていると、本人は思っている。なぜと言われても、その理由はよく分からない。信仰があろうがなかろうが、それが人として守るべき道だと私が考えているからだろう。

それでは、信仰者として生きることの意義は二の次であるかといえば、そういうものでもない。先にも書いたように、私と人との間にモラルや良識に基づいた関係があるように、キリストと私との間には信仰に基づいた関係というものがあるからだ。両者を同じ土台で考えることは難しいだろう。

さて、信仰に基づいた関係において、私はどのように過ごすべきなのか。ちょっと大げさな言い方かもしれないが、おそらくそれが、私がこの世界で信仰者として負うべき使命なのだろう。さすがにイエスが私のところに現れて、どうすべきかを直々に教えてくれることはないだろう。だが幸いにも、福音書の著者はイエスと弟子たちの間のことをいくつか書き残してくれている。例えばルカはこのようなことを記録している。「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」(ルカの福音書9章1~2節)

さらにイエスは集まった弟子たちにことように伝えられた。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。杖も、袋も、パンも、金も。また下着も、二枚は、いりません。どんな家にはいっても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。人々があなたがたを受け入れないばあいは、その町を出て行くときに、彼らに対する証言として、足のちりを払い落としなさい。」(同3~5節)

イエス・キリストと弟子たちの関係に私自身を当てはめて考えるのは、もったいないというか、恐れ多いことだが、救い主と彼を信じる人という点においては、キリストと私の関係もさほど違いはないはずだ。信仰者としての私は、この世界で過ごす時間を何のために、どのように使うことが望まれているのか。そもそもキリストはなぜ私を信仰者とされたのであろうか。申し訳ないほどに、信仰に対する熱意に欠ける私であることを、全知全能である神であるなら知っていたであろうに。さて、それについてはおそらく一生の疑問として残るかもしれない。ともあれ、イエスが弟子たちに望んだのは「神の国を宣べ伝え」ることであり「病気を直す」ことであった。

それについて彼は具体的な指示を与えている。「旅のために何も持って行かないようにしなさい。」何とも不思議な内容である。普通であれば、旅の途中で不自由をすることがないように、必要なものを忘れずに持って行くようにと言うべきであろう。しかしながら、イエスは弟子たちに「力と権威とをお授けになった」と書かれているように、それほどのものを与えることができるのであれば、おそらく旅の途中で必要なものもすべて備えてくださるということだろう。

しばし考えてみる。神を信じる立場にある人は何を望まれているのか。それは「神の国を宣べ伝え」ることだ。良くも悪くも、それから逃れることはできないだろう。またそのための「力と権威」やその他に必要となるものは、神御自身が備えて下さるということ。頭では分かるのだが……やはり、まだ信仰に生きるには道が遠いことを気付かされる。