神のキリスト

「群衆はわたしのことをだれだと言っていますか。」(ルカの福音書9章18節)

そもそもイエス・キリストとは何者なのであろうか。すでに手元に聖書があり、知りたいと思うことを知るすべが、あらかじめ備えられている今の時代に生きる私たちにとっては、さほど難しいことではありまい。ひとことで言ってしまえば、信じる者にとっては救い主であり、そうでない者にとっては歴史上の人物、クリスマスの原因となった人、キリスト教の開祖、紀元前と西暦の区切りを作った人、という程度かもしれないが、それでも知ろうと願えば、その方法は聖書という形ですでに完成されている。だが察するに当時生きていた人々には、仮にイエスに実際に会ったことがあるにしても、彼が本当は誰であるかということは、彼らなりに考える必要があっただろう。もちろん人の考えることなので、それが必ずしも正解であったかどうかは如何とも言い難い。とはいえ、人々の言葉というものは、彼らの理想を映すことが多いものである。「バプテスマのヨハネだと言っています。ある者はエリヤだと言い、またほかの人々は、昔の預言者のひとりが生き返ったのだとも言っています。」(同19節)

バプテスマのヨハネにしても、預言者エリヤにしても、昔の預言者にしても、確かに神に忠実な者たちであったろう。彼らは神の前に正しく、神のしもべとして立派に生きた人々であることに疑いはない。しかし、ここに名前を連ねた人々はイスラエルの王ではなかった。そうではなく、来たるべき王のために道を用意する者、人々に王の訪れを告げ知らせるのが目的であって、王その人ではなかった。だとすればまだ人々は救い主であるイエスに会っていながら、まだ見ぬ救い主の訪れを待ち望んでいたのではないか。

それでは、イエスのより身近にいた弟子たちにとって、イエスとは何者であっただろうか。「イエスは、彼らに言われた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えて言った。『神のキリストです。』」(同20節)キリストとは、すなわちメシヤのことであり、油注がれた者を意味する。そして油注がれた者とは、旧約聖書の時代において、預言者を意味することもあれば、大祭司を示すこともあった。それだけでなく、王を表すこともあった。ペテロが言いたかったのはそのうちのいずれであろうか。ペテロや他の弟子たちが共に過ごしてきたイエスは、おそらく神のことばを伝える預言者でもあれば、人と神を取りなす祭司でもあったろうし、悪霊や自然の猛威の上に権威を表す王でもあったろう。もしそうであるとすれば、ペテロはイエスがそのすべてを満たすと考えて、このように答えたのかもしれない。

ところがイエスはそのことを誰にも言ってはならないと厳しく命じている。なぜなのか。イエスの正体を知った人々がローマを打ち倒さんと反乱を起こし、社会が混乱に陥ることを不安に感じたのだろうか。いや、そうではない。イエスには人々から王として持ち上げられるよりも、果たさねばならぬことがあった。彼自身がこう言っている。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」(同22節)

さて、そう言った後、イエスは弟子たちにこう言っている。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(同23~24節)自分の十字架を負うとは、一体どういうことだろうか。当時のユダヤの人々にとって、十字架とは死刑のためのものであった。もし人が十字架を負わされたら、後にも先にもその時だけである。ひとたびそれを負って刑場に向かって歩いたら、二度と戻ってくることはできないのだから。つまり当時の人々にとって十字架とは死そのものであったに違いない。弟子たちにしてもそう感じていたかもしれない。だがなぜ死を意味する十字架を負わなければならないのか、それも一度ならずも毎日負わねばならぬとは。もちろん、毎日死ななければならないなどと、イエスはそんな無茶なことを言っているのではない。おそらく彼が言わんとしていることは、自分で自分を救おうとする、独りよがりで自己中心な思いを日々捨てなければならないということだろう。

これは言うほど簡単なことではない。しかし私たちがイエスに従うのであれば、神のキリストであるイエスは私たちを誇りに思い、結果として自分自身を保つことになるのだろう。「人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。もしだれでも、わたしとわたしのことばとを恥と思うなら、人の子も、自分と父と聖なる御使いとの栄光を帯びて来るときには、そのような人のことを恥とします。」(同25~26節)