言うことを聞く

ペテロとヨハネとヤコブの三人の弟子は、モーセとエリヤと語り合うイエスの姿を目にして、予期せぬことに驚き、言葉を失い、それこそ動揺し何をどう考えたらよいのか分からず、幕屋を三つ作りましょうとペテロが言ったのは前回見たとおりである。その後のことである。さらに彼らを驚かせることになったのは。「彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。すると雲の中から、『これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。』と言う声がした。この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった。」(ルカの福音9章34~36節)

突然起こった雲に彼らは包まれたのだ。おそらく彼らの視界はほぼゼロになってしまっただろう。それこそ目の前に自分の手を持ってきて、ようやくそれが見えるか見えないか、という具合であったろう。隣にいるはずの仲間の姿も見えなかっただろう。これが果たして一日のうちの何時頃のことなのかはルカは書き残していない。それが朝だったのか、昼だったのか、夜だったのか、分からない。だが、何時であれ、日の光も月の光も星の光も、すべての光が雲に遮られてしまっただろう。恐れるのも当然である。そのような時に、彼らを包む雲の中から声がこう言うのを聞いたのである。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」

その声の主は誰だったのか。「主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。昼はこの雲の柱、夜はこの火の柱が民の前から離れなかった。」(出エジプト記13章21~22節)荒野でイスラエルの民を導いた神は雲の中にいたという、その旧約聖書の話を知っていた弟子たちにとっては、その声が神のものであることを疑わなかっただろう。もとより、そこにはイエスと弟子たちしかいなかったのだ。聞き覚えのある声であれば、誰のものであろうかすぐに気付いたろう。

その声がイエスが神の子であり、神が選んだ者であると宣言したのである。彼らがどう感じたか、さすがに私には想像することさえできない。驚きであったか、恐れであったか、喜びであったか、感謝であったか。もしかしたら、彼ら自身も自らが何と感じたか、分からなかったかもしれない。山を下りた後、三人はこのことについて何も話さなかった。他の弟子にさえも言わなかった。もしかしたら、三人の間でも話題には出さなかったかもしれない。神はそのことを誰にも話すな、と三人に命じてはいなかった。またイエスも黙っているようにとは言わなかった。では、なぜ三人は黙っていたのか。これは私の想像でしかないが、彼らは話したくとも何と言ってよいのか分からなかったのではないか。彼らの経験があまりにも特異過ぎて、彼ら自身もそれをどう理解したらよいのか分からずに、言葉で表すことができなかっただけなのではないか。

ところで、神はイエスの言うことを聞きなさいと言っている。言うことを聞きなさい、というと、何やら大人が子供を叱っているかのような印象を受けてしまう。日本語で「言うことを聞きなさい」といえば、普通は単純に聞くだけではなく、相手の言うことに従うという意味があるからだろう。ということは、神はペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人にイエスの言うことに従いなさいと言っているのだろうか。だが、そうではないようにも思う。誰かの言うことに従うのであれば、まずはその人が言っていることを理解する必要があるだろう。相手の言うことが分からなければ、そもそも相手の期待に答えることはできないはずだ。確かにこの三人はイエスの最も身近にいたかもしれないが、それでも彼らがイエスを理解していたかというと、どうもあやふやなところがあることは否めない。そうすると、「イエスの言うことを聞きなさい」というのは、もっと単純に、イエスの話すことに耳を傾けなさいということだろう。(ちなみに英語の聖書では簡潔に”hear him”とか”listen to him”としか書かれていない。)

では、これらの事のあった後、イエスは何と言っているだろうか。「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(ルカの福音9章44節)

「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。」(同45節)イエスが語ることは時に難しい。いや、難しいことの方が多いかもしれない。しかし、まず大事なことは、それを理解することではなく、聞くことであろう。聞かなければ、そもそもその意味について考えるきっかけすらないのだから。