神の国に悔いなし

普段、コーヒーを飲みたくなったらコンビニで買うことが多い。酸味が強いのは苦手という以外にこだわりはないので、コンビニのコーヒーでも私は満足である。何より、百円もしくはそれをちょっと超えるくらいの値段で、淹れたてのコーヒーが一杯飲めるのだからありがたい。でもそうは言っても、いつもコンビニだけというのはちょっと味気ない。たまには別のところで飲みたくなるのだ。気分にゆとりがあって、財布にも余裕があれば、つまり給料日の後くらいであるが、スターバックスやタリーズで一服するのは気分転換にちょうどよい。一方、慌ただしく、現金の持ち合わせよりもパスモにチャージされている残高が多いとき、要するに給料日前だが、そんな時はドトールかサンマルクに立ち寄るだけでもよい。そして私がこれを書くための構想を練るのも、そのような時であり場所でもある。今回は、京急の横浜駅下りホームにあるタリーズにやってきて、トールサイズのカプチーノを頼んでみた。ホームからは見ることができない二階席は思いのほか空いていて快適である。帰り道の駅から近いどころか、駅の中なので便利なことこのうえない。

さて、空いている席を見つけて荷物を下ろし、コートを脱いで鞄から手帳とペンを取り出し、一段落ついたところで、カプチーノを飲む。飲むのだが……どうも飲みにくい。マグカップではなく紙のカップに入ってフタをされていたからだろうか、フォームミルクが思っていたよりも固めだったからだろうか、それともシナモンが多すぎたからだろうか。これならば普通にコーヒーを頼めばよかったと、後悔しても手遅れだった。

それにしても、後悔先に立たずということわざがあるほどに、人は後悔をするものなのだろうか。思えば、私も今まで生きてきた中で後悔することがどれほどあったろうか。数えるほどあっただろうか。いや、そんなもんじゃない。数え切れないほどだろう。カプチーノを頼んでしまったという日常の些細なことから、なぜ日本に帰って来てしまったのだろうかという、その後の人生を左右するようなことまで、考えてみればたくさんありそうな気がする。もちろん、そんなことを数えるなど野暮なことはしないが。もっとも後悔することが、必ずしも悪いことだとも思わない。そうすることで、次は正しい選択(カプチーノをマグカップにいれて出してもらうとか)をしようとするだろうし、誤ったと思ったことでも結果的に良かった(やはり日本の食べ物はうまいし、交通機関は時間に忠実だし、何より自分自身が日本人ではないか)と感謝することもあるのだから。

ところで人はなぜ後悔をするのだろうか。自らの下した決断の誤りに気付かされるからだろうか。なるほど、それも分かる気がする。それでは、常に正しい選択をするように注意深く心掛けていれば、人は悔いを知らぬ日々を送ることができるのだろうか。たしかに、そうかもしれない。しかし、そうでないかもしれない。私にしても、たしかにひねくれ者ではあるかもしれないが、ひねくれ者なりにできる限り正しい選択をして日々過ごそうと考えている。だが、それでも後になってから悔やむことがあることは否めない。何かをしてその結果を知り、もしかしたらもうひとつの選択肢の方が良かったのではないかと思うのだ。何のことはない、ただのないものねだりなのだろう。後になってから考えると、その選択が正しかったのか正しくなかったのかではなく、その結果が気に入ったか気に入らなかったのか、ということばかりに目が行ってしまうのではないか。

信仰にしても同じなのではないかと、ふと思うことがある。罪を赦され、永遠のいのちを得たということについて、正しい選択をしたと疑いはない。だが、まったく後悔がないかといえば、そうでもないのが正直なところである。それは、信仰を持ったがゆえに失ったもの、信仰を持たなかったら得たであろうものを考えてしまうからである。

しかし、神を信じたのであれば、別の可能性を振り返ってはならないのだ。ルカの福音には、ある人とイエス・キリストとのやりとりがこのように記されている。「別の人はこう言った。『主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。』するとイエスは彼に言われた。『だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。』」(ルカの福音9章61~62節)

神に従うと決めた後に、あれやこれやと後に残してきたものについて考えるのは、神の国にふさわしくないという。それに、この直前の箇所では、このようなやりとりも記されている。「イエスは別の人に、こう言われた。『わたしについて来なさい。』しかしその人は言った。『まず行って、私の父を葬ることを許してください。』すると彼に言われた。『死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。』」(同59~60節)

イエスに従う者には、目的があり責任があるのだ。それは神の国の良き知らせを人々に告げ知らせることである。神の国ではない別のものに目を向けて、それから離れることを悔やんでいては、先に進むことができないであろう。