神の国が近づく

私はまだハワイに行ったことがない。いつか行ってみたいと思っているのだが、まだ実現できないままだ。ところがそのような私にとっての朗報がある。なんとハワイと日本は近づいているのだ。今は遠くて行けないハワイではあるけれど、待っていれば、それこそ泳いで行ける、いや、それどころか歩いていけるくらいのところにやってくるのだ。さて、年間8センチほど近づいているということだから……ちょっと計算してみると、私がいつになったら歩いてハワイに行けるか分かりそうだ……できた。だいたい7800万年後だ。無理だ、そこまで生きていられない。さすがに太陽の寿命が尽きるまでは、それでもしばらくあるから、もしかしたら誰かは歩いていけるかもしれないが。

でも、ふと思う。もし日本とハワイがくっついたら……日本がアメリカになるのか、それともハワイが日本になるのか。はたまた国境ができてしまうのか。いや、ハワイが日本にくっつく前に海溝に沈んでしまうとか、次の氷河期がきて人類が滅ぶのが先だとか、そんなことは分かっている。分かっているが、現実的な話ばかりしていると楽しみがなくてつまらないじゃないか。

さて、ハワイうんぬんはこれくらいにして、ルカの福音書に目を向けよう。前にも読んだところであるあるが、ルカの福音書の9章の冒頭部分には、イエス・キリストが彼の最も身近な十二人の弟子たちに奇跡を行う権威を与えた後、病に苦しむ人々を癒やし、悪い霊に憑かれている人々を解放し、神の国の良き知らせを伝えさせようと、諸地方に送り出したということが書かれている。さて10章になると、今度は別に選び出した七十人の弟子たちを、同じ目的のために、同じような指示を与えて、今後彼が訪れるであろう町や村に送り出したということが書かれている。もちろん、その旅が安楽なものになるだろうとは、イエスは言っていない。それどころかイエスご自身がこのように言っているくらいだ。「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」(ルカの福音10章3節)狼にとって子羊は、手頃な獲物として映るに違いない。間違いなく、噛み殺されて食べられてしまうだろう。つまり送り出される七十人には、それだけの覚悟が必要だったのである。

それだけのリスクを冒してまで、彼らを送り出すことの意義、目的について、イエスはこう語っている。「そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。しかし、町にはいっても、人々があなたがたを受け入れないならば、大通りに出て、こう言いなさい。『私たちは足についたこの町のちりも、あなたがたにぬぐい捨てて行きます。しかし、神の国が近づいたことは承知していなさい。』」(同9~11節)

イエスが彼らを通して伝えたかったことは、つまり「神の国が近づいた」ということであろう。それを聞いた人々が、そのことを受け入れるか、それとも受け入れないか、そのようなことで事実が変わるというわけではないのだ。十二人の最も身近な弟子たちも、後から加わった七十人の弟子たちも、神の国が近づいたという知らせを伝えるために諸方に送り出されたのである。

それにしても、神の国が近づいたとは、どのようなことなのだろうか。神の国が近づいたということは、それまではどこか遠く彼方にあったのだろうか。果たして神の国までの距離を測ることができるのだろうか。いや、それは無理だろう。神の国とは私たちが生活している次元に存在するものではないからだ。先に書いた、ハワイが近づいているというように、世界地図を見て、そこに記載されている場所だけが測ることができるのだ。神の国など、世界地図のどこを探しても見つけることができない。つまり人間と神の国の距離が縮まったということではないだろう。

おそらく弟子たちを通じて、イエスが伝えたかったことは、誰でもが神の国に入ることができるということだろう。それまで神の国とは、イスラエルの民のみに解放されていた、信仰の在り方だったのではないか。ところが、これからはいずれの国民であろうとも、その信仰に加わることができるようになるということである。つまり、イスラエルの神はすべての人々にとっての神になるということであろう。イスラエルの人々にしてみれば、彼らが保ってきた優位性を失うことになるだろうし、異邦人にとってはローマの支配下にある人々の神を信じなければならないのかと自尊心が許さないだろう。神の国が近づいたと伝えることは、まさに狼の群れに自ら入るようなことだったのかもしれない。

イエスは最後にこのように言っている。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。」(同16節)神の国が近づいたということを、神御自身が仰っているのだ。

神の国が近づいているということ、これは弟子たちが勝手に考え出したことではなく、イエス・キリスト御自身が仰っていることだ。すなわち弟子たちの伝えていることを受け入れるのであれば、それはイエスその人を受け入れるということであり、またイエスをこの地上に遣わした父なる神御自身を受け入れるということになるのだ。神の国の訪れ、つまり神はすべての人々にとって神となるということを、神御自身が宣言されているのだ。