永遠に残る

桜の咲く季節になった。待ちに待ったというと、ちょっと大げさかもしれないが、あながち嘘でもないだろう。桜というと、何やら華やかというか、どこか雅びに思われ、何とも説明のつかぬ気持ちの高ぶりを感じてしまうのは、やはり私が日本人であるからなのだろうか。たまには一句詠んでみようか。宵空に光るは星か桜舞う、いやぁ、全然ダメじゃないか。どだい風流な人間ではないのだから、どうしようもないのだ。咲いた桜の花に酔って、自分が何者であるかを見失ってしまったようである。どちらかと言えば、俗な私は桜の美しさを愛でるというよりも、桜にちなんだ食べ物に喜びを感じてしまうほうである。まさしく花より団子の世界を生きている私である。

さて、桜にちなんでこの季節に出てくるお菓子といえば、桜餅を忘れてはなるまい。今年はまだ食べていない。食べたいと思うのだが、なかなかおいしそうな桜餅が売っているのを見かけないのだ。もちろん、和菓子屋めぐりをするほどの時間もないのだから、仕方ないのだが。普段であれば、コンビニのお菓子で満足をする私であるが、なぜか桜餅に限って言えば、パックに入れられて売っているものを買おうとは思わないのである。特に何か意味があるわけではないが、気持ちの問題であろうか。コンビニの和菓子だって、おいしいものはおいしいのだから食べて損はしないはずだ。ちなみに私にとって桜餅とは、餅を薄くのばして軽く焼いたもので餡を包み、それを塩漬けにした桜の葉で巻いたものである。それが、桜餅の当たり前の姿であると長いこと信じていたのだが、大人になってから実は桜餅には二種類あることを知ったのだ。すなわち道明寺と長命寺の二種類である。そして、私が桜餅だと子供の時分から信じて疑わなかったほうは長命寺の桜餅だったということだ。慣れというのか、今でも桜餅といえば長命寺の桜餅を食べたくなるのである。とはいえ、趣向を変えて今年は道明寺の桜餅でも食べてみようか。

それはさておき、無駄話をを延々続けてもしようがない。聖書の話に戻ろう。イエス・キリストが新たに七十人の信徒を選び、宣教のために諸地方に送り出したという話を読んだ。色々あったろうが、誰ひとりとして欠けることなく無事に帰ってきたそうだ。このように聖書には書かれている。「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」(ルカの福音10章17節)

彼らはイエスから与えられた権威によって、悪い霊に憑かれた人々を解放し、病いに苦しむ人々を癒やし、神の国が近づいたことを人々に告げ知らせた。彼らはそれらの目的を達成したことに興奮し、喜びを隠せなかったことだろう。長らく続いた寒い季節が終わり、日差しが暖かくなり、桜が咲いたことに喜ぶ人々がいるように、それまで彼ら自身が直接見たことも経験したこともなかったかもしれない、イエスの御名の力を目の当たりにした彼らが喜ぶのも当然のことであろう。彼ら自身も励まされ、気持ちが前向きになったことだろう。そのような彼らの話を聞いて、イエスはこのように入っている。「わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(同18~20節)

確かに彼らが起した奇跡は、神に与えられた権威によって為されたものであり、彼らが汚れた霊を打ち負かすことができたのも、神の力によってである。それはイエスも認めている通りなので疑うことはないだろう。

その一方で、イエスはひとつの戒めを与えている。とは言っても、それは厳しいものではない。改めてイエスの発言を見直してみよう。「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。」(同20節)喜びたくなる気持ちも分からないでもないが、しかし喜んではならないと言っている。しばらく前に読んだところだが、弟子たちが悪い霊に憑かれた子供を助けられないことがあり、遠回しに信仰がないことをイエスに指摘されてしまった。おそらく目に見える事ばかりに目を向けていると、それが自分の力によるものと錯覚してしまう弱さが人にあるからであろう。ならば、どうすべきなのか。イエスは言う。「あなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(同)

なぜなら、これが奇跡を起す力を与えられていることよりも意味があるからだろう。神から力を与えられても、それがいつまでもその人に与えられているかは分からない。しかし、人の名が天に書きしるされているのなら、その名は永遠に残るのである。一時のことに喜憂するよりも、永遠のことに喜びを見出すほうが、その喜びを長続きさせることができるのだろう。

堅い話はこれくらいにして、食べたら無くなる桜餅ではなく、毎年春に必ず花を咲かせる桜の木を感謝しようか。